島根県邑智郡 お蓮勘兵衛悲恋の墓

安政4年。
日米和親条約を修補する下田条約が結ばれ、
安政の改革を主導した阿部正弘が死去し、
幕府が将軍継嗣問題でゆれています。
そんな安政4年に浜田藩領内で、
ひとつの悲恋劇がありました。

浜田藩の同心某の妻であるお蓮は、
使用人の勘兵衛と恋仲になり、
それか世間に知れてしまった為に、
領内を出て三坂峠を越えて芸州に逃げます。
しかし夫の同心某は2人を追いかけ、
芸州藩領の大塚で2人を捕まえました。
本来ならば手討ちにするところですが、
他藩領で問題を起こす事も出来ないので、
浜田に戻れは離縁してやると説得し、
三人で三坂峠を戻ることになります。

しかし国境を越えて浜田藩領に入ると、
某はすかさず二人を殺してしまい、
二人の首を持って代官所にその旨を届け、
そのまま浜田に帰って行きました。
三坂峠には首のない二人の遺体が、
野ざらしのままにされており、
それを不憫に思った地元の庄屋が、
村人と共に二人を手厚く葬ったとの事。

島根県と広島県の県境に、
二人の墓が残されています。

島根県邑南町県境付近。
県道5号線はかつての石州街道で、
浜田藩の参勤交代にも使われた道。
三坂峠は石州と芸州の国境でした。


藩政のお蓮勘兵衛の悲恋坂」。
浜田自動車道(高速道路)を、
瑞穂ICで降りてから県道5号線を進み、
山道を進むにつれて雪道となりました。
県境に近い島根側の道路脇に墓はあります。


お蓮 勘兵衛の墓」。
南無阿弥陀仏と刻まれた墓石が二人の墓。
身元もわからず墓が建てられたのでしょう。
騙されずに芸州で暮らしていれば、
2人は幸せになったかもしれません。
もし許してもらえるのならば、
住み慣れた地で暮らしたいと考えたのか、
まんまと騙されて殺されることになります。


頼山陽の揮毫せし石柱 陰陽の分かれ」。
広島側に進むとスノーシェルターがあり、
その脇に看板が建てられています。
頼山陽は「日本外史」の著者で、
尊皇攘夷運動に多大な影響を与えた人物で、
安政の大獄で斬首された頼三樹三郎の父。
・・でどこに石柱が??わからず仕舞い。
で、後で調べたら、
シェルターの中央付近にあったようです。
↓これ。

従是東 安藝国」。
画像はネットより拝借。
「国」の部分が埋もれてますね。
どうもこれが頼山陽の揮毫らしいです。

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