鳥取藩の支藩鳥取東館新田藩は、
鳥取藩が自領で開墾して増やした新田を、
初代藩主池田光仲の二男池田仲澄へ分知し、
幕府に認められて立藩した藩です。
特定の領地はなく鳥取藩の蔵米を支給され、
藩政と呼べるようなものはありません。
分家を諸侯に列させる方便のような藩で、
同じく支藩の鳥取西館新田藩も同様でした。
藩庁・・・と呼んで良いのか微妙ですが、
この東館新田藩主仲澄流池田家の屋敷跡が、
鳥取城下にあります。
「鳥取県知事公邸(東御館跡)」。
仲澄流池田家の屋敷だった東御館の跡は、
鳥取県知事の公邸となっていました。
幕末の9代藩主池田仲建は、
幕命による京都への出兵に反対。
本家の鳥取藩主池田慶徳と対立します。
財政負担や藩内防備の手薄化が理由でしたが、
慶徳は仲建の意見を聞き入れようとせず、
仲建は抗議の自害を遂げました。
鹿奴に藩庁を置いたとされますが、
それは間違いのようです。
殆どのサイトでそう説明されていますが、
実際は鹿奴に藩庁を置いた形跡はありません。
実は鳥取藩の2つの支藩は、
新政府は認めていませんでした。
その理由については明らかではありませんが、
新政府側の資料には2つの支藩の記載なく、
鳥取藩内で使用された呼称だったようで、
藩内文書には[鹿野藩主][若桜藩主]と、
記されていましたが、
新政府宛の文書は[池田従五位徳定]、
[池田従五位徳澄]と記され、
藩主という呼称は使用されていません。
新政府は方便だけの新田藩主を、
方針として諸侯とは認めませんでしたが、
今更この両藩主を家臣に格下げできません。
そこで[鹿野藩主][若桜藩主]と、
藩内のみで呼称したわけです。
つまり両支藩は維新後も蔵米支給の新田藩で、
カタチだけの存在も曖昧な藩でした。
ではなぜ[鹿野藩][若桜藩]と、
名付けられたのかというと、
内向きでも藩名としてふさわしいのは、
かつて旧城地であった場所。
大名として城地を藩名にすることとして、
因幡国において城があった場所は、
[鳥取][若桜][鹿野][浦富]。
本城のある[鳥取]を除くと、
[若桜][鹿野][浦富]となりますが、
[浦富]は既に家老鵜殿家の領地でしたので、
必然的に[若桜][鹿野]だけになります。
どちらを若桜藩と鹿野藩とするかというと、
江戸初期の若桜藩山崎家は3万石の大名で、
同じく鹿野藩亀井家は4万3000石の大名。
両支藩の家格は東館新田藩>西館新田藩の為、
東館が石高の多かった[鹿野藩]に、
西館が石高の少ない[若桜藩]とされました。
そういうわけでネット情報はウソなのですが、
ネットなんて殆どがコピペなんでね。
仕方ないといえば仕方ないのでしょう。
【鳥取東館新田(鹿奴)藩】
藩庁:鳥取城三ノ丸東御館
藩主家:仲澄流因幡池田家
分類:3万石、外様大名(鳥取藩支藩)
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西館新田藩には、清定公以来直接藩士を雇い入れていた。その為、明治に入って若桜藩移動させている移動させている資料が存在する。その資料は「元西御分家 士族家筋書上」「元西御分家 士族代数書上」を小生先祖が
鳥取藩に明治初年提出している事実。
その資料はとしてとしての個人記録で、清定公に召し出された項があり役職名も、御仲小姓・御供目付・御普請奉行・人割小人作廻・御賄役・御銀奉行・普請奉行・直納役・御膳奉行・御近習・御武具奉行・御徒頭・砲術稽古指南役を仰せ付かってきた。(我が村津家先祖
>村津美徳 様
コメントありがとうございます。
成程、ご先祖様の資料が存在するのですね。
西館新田藩は勿論藩士もおりますし、
立派な江戸藩邸も存在した様です。
維新後に江戸より藩士達を国許に移動させたのは、
この西館のある鳥取城下だったのではないでしょうか。