長崎県島原市 島原城②

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天草四郎率いるキリシタン一揆勢は、
幕府軍に皆殺しにされて島原の乱は終結。
乱の責任で島原藩松倉家は改易となり、
藩主松倉勝家斬首されることとなります。
江戸時代を通じて大名の斬首はこれだけで、
それ程の重大事件だったのでしょう。

代わって入封したのは譜代大名高力忠房
3代将軍徳川家光の信頼厚く、
島原の乱で荒廃した島原の復興を任せられ、
忠房はその期待に答えたようで、
年貢免除移民奨励等の政策を行い、
見事に島原を復興させています。
しかし跡を継いだ2代藩主高力隆長は、
父忠房の善政を範とせずに悪政を敷き、
領民の訴えで改易されました。
幕府のその迅速な対応は、
島原の乱の記憶によるものでしょう。

その後は福知山藩から深溝松平家が入封し、
減税農政改革で領内の安定化を図り、
以後5代に渡り安定的に経営しました。
代わって2代ほど戸田家が入封した後、
再び深溝松平家が島原に戻って以降は、
廃藩まで藩主家として統治しています。


御馬見所」。
幕末の藩主8代松平忠和が、
藩兵の訓練状況視察に使用したもので、
元々三ノ丸にあったものを本丸跡に移築。
この御馬見所があった場所は、
現在も調練場と呼ばれているとのこと。


丑寅三重櫓」。
民具資料館として使用されています。
本丸の3つの三重櫓は全て復元されており、
天守を含む4つの櫓がある風景は珍しい。


本丸の下層部は梅園となっています。
ちょうど良い季節に訪問できたようで、
梅の香りが心地よい。


キリシタン墓碑」。
出土したキリシタンの墓碑を集めたもの。
中央のくりぬかれた半円のものは、
手水鉢に転用されていたらしい。


本丸虎口跡にも梅が植えられています。
大手門は整備されているものですが、
関係なしに梅が植えられているは珍しい。
迷路のようになってるらしいのですが、
梅の木ばかりでなにがなんだか・・・。


廊下橋跡」。
本丸と外部を結ぶ唯一の橋で、
廊下橋の架かっていた場所。
向こう側が二ノ丸跡で、
現在は島原文化会館が建てられています。


島原城は堀の中を歩けます。
二ノ丸跡には遺構は無いようなので、
この堀を歩いてみました。
堀から城を見上げれるってのも珍しい。


左側が二ノ丸跡で石垣の向こうが三ノ丸跡。
現在島原市立第一小学校となっています。


堀の中に日本庭園があるのはシュール。


再び本丸へ(駐車場が本丸なんで・・)。
せっかくなんで天守閣に登ってみました。
1Fはキリシタン資料
2Fは島原藩関係資料
3Fは民族資料となっています。


天守閣からの眺め。
遥か海の向こうに熊本が見えました。

幕末の島原藩は安政6年に、
5代藩主松平忠精が死去し、
6代忠淳、7代忠愛と早世が続きます。
最後の藩主忠和は徳川斉昭の十六男で、
15代将軍徳川慶喜の異母弟。
藩論は佐幕の方針を執っていますが、
藩内で尊皇攘夷派[激烈隊]が組織され、
藩論を尊攘に転向させようとしますが、
保守派に阻まれて失敗しています。

尊攘派藩士らの多くは脱藩して上京し、
京都等で尊皇攘夷運動を展開。
保母建尾崎靖らは天誅組に参加し、
梅村真守伊藤益荒らは、
天狗党の乱に参加しました。

丸山作楽は私塾神習処を開き、
藩内の尊攘派藩士を増やしますが、
藩は丸山を忌避して謹慎処分とし、
尊攘派は保守派松坂丈左衛門を暗殺。
藩論を転向させるまでには至らず、
幕府瓦解まで佐幕的な行動を行っています。

鳥羽伏見の戦いの後に新政府に恭順。
戊辰戦争に159名の藩兵を送り、
秋田戦争で4名の戦死者を出しました。

島原城は他城には無い不思議な箇所が多い。
特に本丸はすべての櫓を復元しており、
当時のイメージが違和感なく想像できます。
他の城もこれくらいして欲しいもの。
高石垣も見事で堀の中に入れるのも良い。
石垣を一部壊して本丸に入れるのは、
ある意味ですごく良かったのかも。
あまり期待せずに訪問したのですが、
大変満足した城郭訪問となりました。

【島原藩】
藩庁:島原城
藩主家:深溝松平家
分類:6万5000石、譜代大名

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