福島県相馬市 相馬中村城跡②

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つづき。

本丸へと続く丸土張と呼ばれる馬出し
二宮尊徳先生」像。
二宮尊徳小田原藩士で後に幕臣となり、
報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導。
天明天保の飢饉で困窮した相馬中村藩は、
幕府の許可を得て報徳仕法を導入。
これにより財政再建に成功しています。


岩崎宗山先生碑」。
岩崎宗山は相馬の国学者のようですが、
詳しくはわかりません。


赤橋」。
丸土張と本丸をつなぐ橋。
いよいよ本丸跡です。


本丸跡」。
御殿の他に天守もあったようですが、
落雷で焼失して以後再建されていません。


相馬神社」。
相馬家の始祖相馬師常を祀る神社で、
明治12年に建立されました。
師常は源頼朝の家臣千葉常胤の子で、
相馬御厨(現在の千葉県北部)を相続し、
相馬姓を名乗りました。

4当主相馬胤村の死後、
先妻の子相馬胤氏と後妻の子相馬師胤が、
家督を争って両者は分かれ、
胤氏の系譜が下総相馬家となり、
師胤の系譜が陸奥相馬家になっています。
戦国時代に入り後北条家が台頭すると、
下総相馬家はそのの配下となりますが、
豊臣秀吉小田原征伐で改易。
後に徳川家に召し抱えられて、
旗本として存続しています。

一方の陸奥相馬家は小田原征伐では、
豊臣方について本領を安堵。
関ケ原の戦いでは中立の立場ながら、
西軍寄りとみなされ改易となりますが、
藩主自らの直訴により許され、
所領を安堵されています。

本丸を西側から降りて西三ノ丸跡へ。

相馬中村神社」。
平将門が承平年間に建立した妙見社を、
相馬家が各城に勧請したのが始まり。
本拠を中村城に定めた際、
城内に社殿を建立したのが起源。
本丸跡に相馬神社、
西三ノ丸跡に相馬中村神社と、
非常にややこしいのですが、
こちらの神社の方が古いようです。

相馬中村神社を出て再び南二ノ丸跡へ。
本丸鉢巻石垣及び内堀跡」。
本丸の崖は急斜面で、
中段より上に鉢巻石垣が一周しています。

相馬中村城を出て城下の正西寺へ。
相馬中村城移築高麗門(正西寺山門)」。
相馬中村城より払い下げられた高麗門
どこにあった門かよくわかりませんが、
数少ない城の遺構となっています。

相馬中村藩は奥羽列藩同盟に参加し、
平潟へ上陸した新政府軍と交戦しています。
藩兵が中村城から磐城平城へ向かい、
二度の攻防戦に耐えますが、
三度目に磐城平城は落城。
指揮を取った安藤信正の脱出後も、
磐城平兵と共に藩兵の一部は城に残り、
なおも新政府軍の猛攻に絶えました。

休みなく攻める新政府軍に為す術なく、
磐城平藩家老上坂助太夫は討死を決め、
残っていた中村藩の相馬胤眞に対し、
磐城平兵のみで守ると退却を促します。
これに胤眞は一緒に退却するように説得。
城を捨てて全軍で引き上げました。
脱出した城兵は城外の同盟軍と合流し、
相馬中村藩領で体制を立て直すべく後退。
新政府軍も北上して中村城を目指します。
広島藩兵を先鋒隊とした新政府軍に対し、
夜襲を仕掛けてこれを後退させますが、
広島藩兵は鳥取藩兵と巻き返しを図り、
広野で激戦が開始されます。
始め優勢だった同盟軍でしたが、
長州藩兵と岩国藩兵の到着で形勢は逆転。
同盟軍は総崩れとなってしまい、
胤眞は戦死してしまいます。
その後の浪江での激戦にも敗れ、
仙台藩米沢藩及び旧幕軍は中村を去り、
仙台藩は藩主相馬誠胤に対し、
仙台に逃れるよう即しますが、
しかし誠胤はこれを拒否して降伏し、
相馬中村藩の戊辰戦争は終わりました。
藩主誠胤が仙台行を拒んだのは、
自らが列藩同盟の人質とされ、
藩士らが戦わざるを得ない状況を見越し、
そうならないように拒んだとみられます。

相馬市といえば[相馬野馬追]でしょう。
未だ僕は見た事がないのですが、
いつか是非見てみたい。
云々と述べる事は控えますが、
千年に渡り受け継がれてきた伝統の祭で、
相馬市が3日間だけ戦国時代に戻ります。
野生馬を放した軍事訓練が始まりとされ、
これは神事でもある為、
幕府からの取締からも除外され、
千年も続いたということです。

相馬中村藩は寡兵でありながらも、
かなりの善戦をしたといえるでしょう。
敗れたとはいえ相馬武士としての面目は、
充分に果たせたのではないでしょうか?

【相馬中村藩】
藩庁:相馬中村城
藩主家:陸奥相馬家
分類:6万石、外様大名

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