今更ながら涙袖帖⑤

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(11)文久2年8月28日(京都より)
尚々高杉しんさくどの此内上京に相成まことにまことに
よろこはしくそんし参らせ候松洞方へ時々香典おんおくり
なさるべく候松洞の事はおもへはおもえはさんねんにて
こらへられぬほとにそんし参らせ候いくも大谷に御いて
なされ候や先日法事のしらせまいり候のみにて
なにたる様子もきこへ不申あんじ候ぶゆものきぬもの
もはや大谷にも無之様にあいなり候半とそんぜられ候
なければ御心配には及び不申候何も何も後の便とかしこ
おいおいすずしくあいなり候ままいかかおんくらし候半
とあんもしいたし参らせ候拙者もさわりなくくらし候
ままおんきづかひなさるまじく候もはや六十日ばかり
にも相成候得今似なにたる御沙汰もなく法雲寺と申候所
つつしみ居候まことにまことに楽のくらしにて御上の
御思いかにもありがたき御事にそんし参らせ候
おいおいすずすく相成候事に付ふゆものの少々
おんおくりならりべく候きぬものあれはなをさら
仕合に候得共定はなき事と考え参らせ候拙者もいつれ
ここもとと滞留にておいくだしは相成まじく
ぞんぜられ候おいおい拙者のこころさしも
とのさま御發明におはしまし候に付相届申掛候
まま御あんもじなさるましく候杉みなさまへ
よろしくおんつたへなさるべくかへすかへすも用心
専一に候めてたくかしこ
  八月廿八日
                 玄瑞
 お文どのへ
      様
訳:高杉晋作殿が此度上京することになり、
真に喜ばしく思っています。
松洞方へは時々香典を送って下さい。
松洞の事は思えば思うほど残念で堪えられぬ程です。
いつも大谷家にお出かけ頂いていますが、
先日は法事があったということですが、
現在はどういう状況かわかっておりません。
冬物や絹物はもはや大谷家に無いかもしれませんが、
無ければご心配には及びません。
だんだん涼しくなってきていますが、

いかがお過ごしか心配しております。
拙者はさわりなく暮らしておりますので、
お気遣いはいりません。謹慎は60日も過ぎていますが、
楽な暮らしで御上のご恩をありがたく思っております。
おいおい涼しくなってきましたので、
冬物を少しお送り下さい。絹物があれば嬉しいですが、
たぶん無いものと考えております。
拙者もいずれはここを出ていくつもりで、
拙者の志は殿様にもいつか伝わると思っておりますので、
どうぞご安心下さい。杉家の皆様へ宜しくお伝え下さい。
返す返すも用心が第一です。
  8月28日
                   玄瑞
お文どのへ

高杉晋作上海から帰国後、江戸行きを命じられ、
 途中の京都で藩主に上海視察を報告しており、
 その際に久坂にも会ったようです。
 まだ松洞の死の件を引きずっている様子ですが、
 晋作と松洞の思い出話でもしたのかもしれませんね。
 手紙の後半は冬物の着物の事。
 久坂の私物の多くは大谷家で預かっていた模様。
 杉家にマスオ状態なので、多くは持って行けず、
 預かってもらっていたのでしょう。

(12)文久2年閏8月17日(京都より)
尚々梅兄にも障りなくおんくらしなされ候まま
あんもしなさるべく候八月十九日の文とどき
まづまづさわりなくくらされ候ままあんもしいたし
参らせ候拙者も今以おんつつしみにてなにたる御沙汰も
無之候此内榮太郎はみやすく御免に相成安心いたし候
されはさては此内來原良蔵との切腹のよしもののふの
つねとは申なから留守にはいかにも残念におもはる
べくとそんし参らせ候先日はおととさま生雲へ
おんいでのよし一日歸とはさぞさぞおんつかれ遊ばし
候半とそんし参らせ候もはやすずしく相成候事に付
おかかさま姉さま一同生雲へおんきほうように
おんともなさるべく候拙者もおんつつしみにて候得共
何分日夜しんつう事計にて生雲へも手紙もおくり不申候
此内利助歸國に付何も何も御承知とそんし参らせ候
あらあらめてたくかしこ
  閏八月十七日
                 玄瑞
 尚々ご用心かんもしにそんし参らせ候
 杉みなさまへおんつたへ宜頼入候
 先日冬ものの事申遣候處相とどき候半とそんし参らせ候
 おふみとのへ
訳:梅兄は障りなくお暮しになっておりますので、
ご安心下さい。8月19日の文が届き、
まずまず元気で暮らしているようで安心しています。
拙者は今は謹慎中で何も御沙汰はありませんが、
榮太郎は許されましたので安心しています。
さて来原良蔵の切腹は良き武者の常とはいいますが、
国元ではいかにも残念に思われると存じます。
先日はお義父様が生雲へおいでになったとのこと、
1日帰りとはさぞお疲れの事と思います。
もう寒くなっておりますので、お義母様や姉様一同、
生雲での法要の際にはお供された方が良いでしょう。
拙者は謹慎中ですが利助が帰国していると思うので、
全てご存じとは思いますので簡単にご報告します。
  閏8月17日
                 玄瑞
お体に気を付けて下さい。
杉家の皆様へもお伝え下さい。
先日の冬物の件。ちゃんと届いております。
おふみどのへ

榮太郎(吉田麿)は許されましたが、
 未だ久坂に沙汰は無いようです。
 来原良蔵は久坂と長井雅楽暗殺に失敗し、
 その責で切腹を申し出ますが許されず、
 横浜で外国公使館襲撃を企てていますが、
 これを知った世子毛利定広に説得されて断念。
 精神的に追い詰められた来原は藩邸で切腹しました。
 義父の杉百合之介が大谷家に日帰りしたようで、
 その心配をしています。

(13)文久2年10月9日(京都より)
 杉みなさま玉木佐々木小田村兒玉などへもよろしく
 おんつたへなさるべく頼参らせ候
八月廿九日閏八月13日九月二日の御文おいおいに
相とどき日にましさむさに相成候得共杉みなさまを
はじめおん障りなふおんくらしなされ候よし
まことにまことに安心いたし参らせ候
拙者も近來は大いに無事に暮らし候まま
御あんもじ下さるべく候梅兄井に久保おん歸りに付
京都の様子もおんききなされ候事とすいもじいたし
参らせ候去四日は殿様後参内恩首尾能遊ばされ誠に
めでたきおん事にて我々までも御酒頂戴被仰
ありがたきと申におそれ多き事に候此度
御勅使江戸へ御下向にて唐人ども打拂ひの御沙汰
仰せ出され候御事のよしにて来十二日御發駕遊ばされ
候事に候まことにまことに此春以来
御上様方の御苦労遊ばされ候御甲斐もあらわれ
申候事にていかにもうれしきあまりに
なみだの落る計に候吉田先生中谷亀太郎など存生
なればさぞさぞおどりあがりておんよろこびなされ
可申と残念にそんじ参らせ候先日巳来おいおい冬物など
おんおくりみなみな相とどき大にしやわせ之事に
御座候拙者も様子次第中比より寺島など同道一先
江戸へ下る考に候得共来た御願書はさし出し不申候
近来は歌もおんつくりなされ不申候や随分ひまも
あれば歌などおんつくりなさるべく候此春安藤一條
にて召捕へられ候兒島強助と申宇都宮の人の一家内
和歌をよくよみ候事はいかにもうらやましき事に
なん此人は町人のよし承り参らせ候間御親類などへも
御覧におんいれなさるべく候何も何も先日梅兄より
おんききと相考へあらあら申遣候
かへすかへすも御用心なさるべく朗々めてたくかしこ
書足し:是歌はまことになみだのながるるほどの
あはれの事にていかにもかんしんなり歌は
心の思ふ事はすぐに申すものなればいかほど
よくできてもこころがつまらずでは
なんのやくにもならぬものなり
心がたしかにあるによりて歌もよむ人を

なかするほどにこそあるものにて候涙襟集などが
そのところにて候
  十月九日
                  玄瑞
 尚々中谷正亮殿などの事まことにまことに残念千萬之
 事に付先日つまらぬ事よみ候ままおんめにかけ参らせ候
いまさらにあふよしをなみ逢坂のやまのはの月影ぞさぶしも
あき深しみやまの峰の楓葉の過ぎていゆきし此君あはれ
まつろはめ夷ことごとまつろへむ時にしあれど雲かくれにき
突き清く秋風さむし草まくら旅寝もさめず秋風さむし

 まことに歌にもならぬつまらぬ事ながらとりあへず申遣候
 多用中あらましの文仰すいもじ可被下候
 於文とのへ
      様
訳:杉家の皆様、玉木、佐々木、小田村、兒玉などへも、
宜しくお伝え下さい。
8月29日、閏8月13日、9月2日の御文は、
それぞれ届いています。日ごと寒さがましますが、
杉家の皆様をはじめ皆お変わりないようで、
まことに安心致しております。
拙者も最近は無事に過ごしていますのでご安心下さい。
梅兄や久保がお帰りになったので、
京都の様子も聞かれた事と推測致します。
さる4日は殿様がご参内されて誠にめでたい事で、
我々もお酒を頂戴してありがたく頂きました。
ご勅使が江戸へ下って外国人ども打ち払いを命じる為、
この12日にご出発なされました。
この春以来の上様方のご苦労の甲斐があって、
とても嬉しく涙の出るほどです。
吉田先生や中谷亀太郎などが生きていれば、
躍り上がって喜ばれるのではないかと残念です。
先日お送りいただいた冬物などは全て届いており、
とても喜んでいます。
拙者も様子次第では江戸に下るつもりです。
ことづけてあった御願書は出さないで下さい。
最近は歌はつくられないのでしょうか。
暇があるなら歌をつくられたらと存じます。
此春安藤の件で捕縛された兒島強助という

宇都宮人の家族は、歌をよくよんでいたそうです。
うらやましい事にこの人は町人なのですが、
御親類などにもつくった歌を見せ合っていたそうです。
先日梅兄から聞かれていると思いますので、
簡単に書かせて頂きました。
くれぐれもお体を大切にしてください。
注釈:この歌はまことに涙の流れる程の哀れなものです。

歌は心の思う事をすぐに表現するものですから、
どれほどよく出来ていても心が入っていないと、
何の役にも立たない。
心が入ってこそはじめて読む人を泣かす事ができます。
涙襟集などがそういうものです。
  十月九日
                  玄瑞
 中谷正亮殿の事、真に残念な事です。
 先日つまらないものを詠みましたのでお目にかけます。
いまさらにあふよしをなみ逢坂のやまのはの月影ぞさぶしも
あき深しみやまの峰の楓葉の過ぎていゆきし此君あはれ
まつろはめ夷ことごとまつろへむ時にしあれど雲かくれにき
突き清く秋風さむし草まくら旅寝もさめず秋風さむし

 真に歌にもならないつまらないものながら、
 とりあえず添えておきます。
 多用なので簡単な文ですいません。
於文どのへ

※手紙にはありませんが、
 久坂は謹慎から解放されています。
 三条実美を正使、姉小路公知を副使とした勅使が、
 江戸に向かった旨が書かれていますが、
 このような政治的な事を妻に書き送る程、
 久坂の心は踊っていたのでしょう。
 安藤一條というのは、坂下門外の変の事で、
 実行犯の兒島強助は既に獄死しています。
 また、文に歌を催促していますが、
 意外と文から歌が送られたことが嬉しいようです。
 自分の歌を送って遠回しに促してる感が可笑しい。

つづく。
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