今更ながら涙袖帖⑧

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(20)元治元年3月25日(山口より)
たびたびふみ下されまづまづささはりなくよし
安心いたし候拙者も去十九日御用ありて山口まで
かへり候御あんもし下さるべく頼参らせ候せつかく
の事ゆえ御先祖様の御はか参をもいたしたく候得とも
このたびはいそぎの事といひかつまた水戸のひとなど
つれ相もあるゆへこころにまかせ不申候粂次郎も
無事にくらし候よしに大いに安心いたし候何もはやく
成人して御用に相立候様相なりかしと夜に日にいのり
候事にて候これもひつきう親のそだてなればよくよくも
御気を付られおしさとし候事かんもしとそんし参らせ候
さて去四日京都東山の霊山と申すところにて御先祖様の
まつりいたし御神位もそのところの神主村上丹後と
申ものの方に永代祭くれ候やう頼置候さやう御心得
なさるへく候此度はみぎの次第ゆへ粂次郎なとへも
なんのみやげもなくきのどくにそんし参らせ候いつれ
京にのほり候上は大小をもととのへおくり
可申候杉みな様へよろしく御つたへなさるべく候
吉田年丸も此内より上京いたし候に付年丸のははへ
御傳へなさるへく候すこやかすぎるほどすこやかに候
おり参らせ候あらあらかしこ
  三月廿五日
                 義助
 先日杉おとと様おんかえりに付き何もおんききとそんじ
 参らせ候小太郎とのおとよとのにも例のことくみやげなく
 いかにもきのどく千萬にて候大谷中井へも
 よろしく頼参らせ候
 お文とのへ
 尚々下女なとはおんおきなさるべく候
訳:たびたび手紙を下され、変わりなく安心しています。
拙者は去る19日に御用があって山口まで帰っていました。
ご安心下さるようお願いします。

折角なのでご先祖様のお墓参りをしたかったのですが、
今回は忙しくて、更に水戸人などの連れていましたので、
思い通りには行きませんでした。
粂次郎も無事に暮らしているようで、

大いに安心しております。
どうか早く成人して藩のお役に立てるように、
夜に昼に祈っております。これも親の仕事ですので、
くれぐれもお気を付けて教育して下さい。
さて、去る4日。京都東山の霊山と申すところで、
ご先祖様の祀りを催しました。
御神位も神主村上丹後の方に永代祭をしてくれる様、
頼んでおりますので、そう心得ておいて下さい。
そういう事ですので、粂次郎などにも何の土産も無く、
気の毒なのですが、いずれ京に上った際には、
大小も整えて送ろうと思っております。
杉家の皆様へ宜しくお伝え下さい。
吉田年丸もこの間上京しましたので、
年丸のお母様へお伝え下さい。元気すぎるほど元気です。
  3月25日
                 義助
先日、お義父様がお帰りになったので、
全て聞かれている事と存じます。
小太郎殿とお豊殿にも例の如く土産なく気の毒です。
大谷や中井へも宜しくお伝え下さい。
お文どのへ
下女なとを雇ったらどうでしょうか。
※神道葬祭場の霊明社で先祖の霊を祀ったようです。
 村上丹後と書かれていますが、丹後ではなく、
 丹波の誤りらしいです。
 最期に下女を雇ったらと言っているのは、
 杉家も老人や子供ばかりで大変だからでしょう。
 
(21)元治元年6月6日(山口より)
あつさのせつに相成候得共まつまづおんかはりなく
くらされ候よしいかにも安心いたし粂ニ郎昨日
まいり久しぶりにあいたい大によろこび昨夜も
一しよにね候粂ニ郎大小も大坂にあつらひおき候
得共此度はまにあひ不申候いつれのぼり候上は相調
早々さしおくり可申候梅兄も一昨日山口御出かれこれ
おんはなしをもいたし候事に候此度は何分ちよとなり
ともかへり度候得共用事しげくこまりおり参らせ候
なにとかいたし見可申候何もあらあらかしこ
  六日
佐々木おば様杉みな様小田村兒玉玉木にもよろしく
頼参らせ候粂次郎は一両日とどめおき候
いかにもおとなしくあそびおり候
御あんもしなさるべく候
                  よしすけ
 留守に
    様
訳:暑くなりましたが、お元気に暮らしているようで、
安心致しております。粂ニ郎は昨日到着しており、
久しぶりに会って大変喜んでおります。
昨夜も一緒に寝ました。
粂次郎の大小も大坂であつらえていますが、
今回は間に合わなかったので、いずれ上京した際には、
すぐに差し送ろうと思っています。
梅兄も一昨日に山口においでになったので、
お話させて頂きました。今回はちょっとだけでも、
帰りたいのですが、用事が多く困っていますが、
なんとかしたいと思います。
  6日
佐々木おば様、杉家の皆様、小田村、児玉、玉木にも、
宜しくお伝え下さい。粂次郎は一両日泊らせます。
大人しく遊んでいますので、ご安心下さい。
               よしすけ
留守に

   
最後の手紙です。この後、禁門の変が起こり、
 久坂は堺町御門内の鷹司邸寺島忠三郎と自刃。
 帰らぬ人となってしまいます。
 今までの文面に「お文との」と入っていましたが、
 最期の手紙には何故か書かれていません。
 たぶん単純にうっかり忘れたものでしょうが、
 何か予感のようなものを感じます。
 手紙の内容は、養子の粂次郎山口を訪問し、
 親子水入らずで過ごした様子を伝えたもの。
 1ヶ月余の後にこの義父は自刃してしまいますが、
 一緒に寝るなど懐いていた6歳の粂次郎を思うと、
 それこそ涙袖です。粂次郎は一時久坂家を継ぎますが、
 後に久坂の庶子秀次郎が現れた為、生家に戻されました。
 後に台湾に渡り教師として住民の教育に尽くしますが、
 残念ながら匪賊によって殺されています(六氏先生)。

 全21通の久坂の手紙を読んでみると、
 久坂の人となりが少しだけ見えてきます。
 先祖を大切に思い、親族を大切に思い、
 子供好きであった様にも感じられる。
 横山幾太が後に久坂が文との縁談を断ったのを、
 「拒むに夫の妹氏醜なるを以ってせり
 と語った為、文が不美人の烙印を押されてしまい、
 久坂が京にを作った為に信憑性が増したわけです。
 文面を何の先入観も持たずに読んでいると、
 確かにはじめの手紙には愛情のようなものは、
 あまり感じられませんでしたが、
 途中よりその距離か縮まったように思えました。
 久坂は尊皇攘夷運動に奔走し、滞在の期間は少なく、
 夫婦生活は2年に満たないとされています。
 ・・が、この手紙を読んでいると、 
 泣き言を綴り、頼り、必要以上を報告し、
 自分の趣味や価値観を押し付ける。
 確かに文は久坂の妻であったことが感じられました。
 実際の文が不美人であったかどうかは、
 文(美和子)の晩年の写真しか残ってませんので、
 なんとも言えませんが、そんなことは夫婦間では、
 大したことではありません。
 久坂がハンサムで背が高く、美声で才能があったから、
 不美人を妻にするのはイヤイヤであったと考えるのは、
 とても浅はかです。
 国元に妻を置いて中央で活動した志士の中には、
 手紙も書かずにほったらかしにした者も多く、
 これだけの手紙を送ったというだけでも、
 意外に愛妻家なのかもしれませんね。

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久坂玄瑞
 久坂玄瑞について。古い記事。
「花冠の志士」古川薫
 久坂玄瑞を主人公とした古川薫の小説。
萩市 吉田松陰墓所
 吉田松陰の墓の他、久坂の墓もあります。

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