今更ながら涙袖帖⑦

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(17)文久3年6月13日(京都より)
あつさのせつさぞおんこまりとすいもしいたし
参らせ候拙者も先日廿八日急御用有之にわかに
京都へのぼり候てゆき候十日滞留五日十五日目に
かへり候ほどのいそがしき事にて候叉々京都に
一方ならぬ御大事あり候ゆへ上京せずてはならぬ
事にてます田弾正どのまちうけ一先ちよと下の關へ
出直様上方へのぼり候様御沙汰にて候いかにも
外國よりはせめきたり日本いちにもにくき
きたなやつどもたくさんありて内外ともに浅からぬ
しんぱい事にて候
天子さまのおぼしめし殿様御父子さまの
おんこころざしどこまでもつらぬかではならぬ事と
敷ならぬ拙者までも苦心いたし参らせ候御すいもし
給はるべく候このたびはちよとなりともかへり
保福寺のおんはかまへりをもいたしたくそんし
参らせ候得ともいかにも右之通之事ゆへ
しんていにもまかせず候生雲へもわたしの無事にて
かれこれほねをおり候だんおんきかせ下さるべく
願参らせ候文かくいとまも無之候吉田小太郎どの
おとよどのおいおい大くなられ候事と
すいもしいたし参らせ候杉みなみなさまへよろしく
おんつたへ下さるべく候上方の事いかにも気にかかり
参らせ候しかし下の關も大事高杉出張のよし
安心いたし参らせ候いつれ下の關にてゆるゆる申合の
つもりにて候いそがしき事ゆへ先はあらあら申遣候
めてたくかしく
  六月仲の三日
                  玄瑞
尚々あつさおんいとい申まてもなき事にて
かんもしにそんし参らせ候巳上
お文とのへ
訳:暑さの節、さぞお困りの事と存じます。
拙者も先月28日に急用があって京都へ上りました。
10日の滞留で5日から15日に帰るほどの忙しさで、
またまた京都で尋常ならぬ一大事があり、
上京しなくてはならず、益田弾正殿を待ち、
先に下関へ出向いてから上方へ上れとのご沙汰です。
外国が攻めてくるし、日本中にも憎き汚い奴共が、
沢山いて内外共に大変な状況です。
天子様の思し召し、殿様ご父子様のお志し、
どこまでも貫かねばならないと、
下々の拙者までもが苦心している事をご理解下さい。
少しだけでも帰って保福寺に墓参りしたいのですが、
そういうことですので、思い通りになりません。
生雲にも私の無事と現在の状況を聞かせて下さる様、
お願い申し上げます。文を書く暇もありませんが、
吉田小太郎殿やお豊殿は大きくなったでしょうね。
杉家の皆様へ宜しくお伝え下さい。
上方の事が気がかりです。下関の事も大事ですが、
高杉が出張するということで安心しております。
いずれ下関でゆっくり話し合おうと思っています。
忙しい時ですので簡単に申し上げました。
  6月13日
                  玄瑞
申すまでもない事ですが、暑さお厭い下さい。
お文どのへ

※京都-長州間を行ったり来たりで確かに忙しい。
 久坂が一番輝いていた時期です。
 政敵を憎き汚い奴らと罵っているのは、
 久坂の純粋さを感じます。
 下関は高杉が行くから安心というのは、
 なんだかとっても微笑ましいですね。

(18)文久3年8月19日(京都より)
 尚々われ事もやまれぬ次第ありてよしすけと名を
 あらため参らせ候かしく
そののちはいかかやと朝夕たへずあんもしいたし
参らせ候われ事もさわりなくくらし候ままこころ
やすくおもい下さるべくそんし参らせ候さては
このうちおんくににかへりおり御前にて御無いめいを
うけ上京これやかれやとちからをつくし候ところ
去十八日のこといかにも口おしきはわるものども
数千人きんりさまをとりまきそのうへ御國にて
もちまもり候へし御門をも外の人におんあづけになり
このせつにてはけしからぬににくき口惜しきわざのみ
いかにもいかにもさんねんにて候それゆえこのうち
清末さま岩國さまおんかへりのおりもひょうごまでは
おんともいたし参らせ候得どもそれより
ますだどのをはしめ申合またまたふたたびののぼり
おんやしきのうちにかくれおりを相まち申候
このせつにてはきびしくせんぎなどいたしまわり候よへ
ゆだんはならぬいおんやしき外へはひとあしも出不申候
まことにざんねんとも口おしとも申すにあまりあること
にて候さよう候得はせつかくのきんりさまの
ほほしめしもとのさまのおこころさしも
ちよとにはつらぬき申しまじくまことにむかしの
くすのきさまにつたさまなどのおんこころざしにて
なくてはならぬすこしもたゆみてはならぬごじせつと
われ事もよるひるくろういたし参らせ候さては
このうち小田村兄さまおたちおりしもかの二男の方を
養子にもらひおき候ままみなさまへおんはかりなされて
おもらひなさるべく頼入参らせ候小太郎どのおちよどのも
せいじんとよろこび参らせ候なにもあらあらめて度かしこ
  八月廿九日
               よしすけ
 かへすかへすみなみなさまへよろしくおんつたへ
 なさるべくそんじ参らせ候そもしさむさおんいと
 ひかんもしさんし参らせ候かしこ
 お文どのへ
      様
訳:仕方ない事情があってよしすけに改名します。
その後の様子を絶えず案じられていると存じますが、
こちらは障りなく暮らしていますのでご安心下さい。
さてこの頃は御前にてご内命を受けて上京し、
あれこれ力を尽くしていましたが、
去る18日の事は真に口惜しく、
悪者共が数千人禁裏様を取り巻き、
そのうえ長州藩の担当する御門が他藩に取られ、
怪しからぬ、憎き、口惜しい状況となり残念です。
その為、清末様や岩国様がお帰りの際も、
兵庫まではお供しましたが、それより益田殿らと話し合い、
再び京に上り藩邸に隠れて時期を待ちました。
この頃は厳しくなって詮議などが廻っており、
油断はならぬのでお屋敷の外へは一足も出られません。
真に残念とも口惜しいとも余りある事です。
折角の禁裏様の思召しも、殿様のお志しも、
簡単には貫き通せない状況で、
真に昔の楠様に津田様などの志でなければならず、
少しもたゆませてはならぬご時世と、
自分も夜昼苦労しています。
この頃、小田村兄様の帰る際にお話しして、
二男の方を養子に貰う事になりました。
皆様にお手伝い頂いてお貰いなさる様お願いします。
小太郎殿、お千代殿も成人になったようで喜んでおります。
  8月19日
               よしすけ
返す返す皆様へ宜しくお伝え下さい。
寒くなってきましたので、体をお厭い下さい。
お文どのへ

八月十八日の政変の様子が書かれています。
 何故か今回は平仮名ばかりで、
 悔しさの余り殴り書きしたってところでしょうか?
 藩邸に潜伏している様子から緊迫感が伝わります。
 ですが文にとってはそんなことよりも、
 「名前変わったのでヨロシク~
 「養子貰う事にしたのでヨロシク~」って、
 こちらの方が一大事です。

(19)元治元年1月19日(京都より)
あら玉の年の始に相成候得共さむさなかなかにさりかね候
處御さわりもなく御年越と悦参らせ候われ事もかつかつに
くらし候まま御あんもし給ふべく候頼参らせ候拙者京都に
のぼりしのちもたんさくなどいかにもきびしくありて
まことにまことにこまり入参らせ候くはしき事は先日十蔵
かへり候時にておんききなされ候事とすいもじいたし
参らせ候あらあらめて度かしこ
  正月十九日
 尚々御用心なさるべく申もおろかにて候
 杉みなさまへよろしくおんつたへ頼そんし参らせ候巳上
 お文とのへ
尚々このどうふく小ばかま一つは吉田小太郎どのへ
一つは粂次郎に紅の帯一筋は杉おとよとのへまいらせ度
おくり申候これはとし玉のしるしまでにて候
条次郎事まいまいまいり候やはやはや政庁せよかしと
いのり居候事にて候かしこ
小田村文助とのよりよろひひたたれ頼来候處いまた
調ひ不申候に付ととのひ次第おくり可申候事
訳:新たな年の始まりとなりましたけれど、
寒さはなかなか去ってくれませんね。
この度は支障なく年を越せたようで幸いです。
こちらもどうにか暮らしておりますので、
ご心配なさらぬ様お願い致します。
拙者は京都に上った後も探索などかなり厳しく、
まことに困っています。これらは十蔵が帰った際に、
聞いているとは思いますので、簡単にお伝えしました。
  1月19日
お体に気をつけてというのも愚かですね。
杉家の皆様へ宜しくお伝え願います。
お文とのへ
この同服の小袴は、1つは吉田小太郎殿へ、
もう1つは粂次郎に与え、
紅の帯一筋は杉お豊殿にお願いします。
これはお年玉のしるしです。条次郎の事大変でしょう。
早く成長してほしいと祈っています。
小田村文助殿より鎧直垂が贈られるようですが、
まだ調っていないので、調い次第お送り致します。

※京都での活動もかなり危険だと思われます。
 養子を貰ったのは死を覚悟したからでしょうが、
 手紙を読んでいると、子供好きだと推測できます。

つづく。
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