つづき。
①/②
「上杉神社」。
米沢城本丸跡に鎮座する上杉神社。
上杉謙信の遺骸は鎧を着せて帯刀させて、
甕に入れて漆で密封されたという。
この甕は上杉家の移封と共に移動し、
関ケ原の戦い後に上杉家が米沢に移った際、
米沢城の本丸に御堂を建てて安置され、
明治維新後に歴代藩主御廟へと移されます。
そして城内に留まる謙信の霊魂を祀る為、
この上杉神社が創建されました。
「拝殿」。
創建当時の社殿は大正8年の大火で焼失。
翌年に再建されたものが現在の社殿です。
米沢藩は謙信の遺骸をずっと持っており、
そういう藩って僕の知る限りありません。
甕に納められた軍神の遺骸は、
神仏の宿る宝物だったのでしょうか?
漆で密閉されているということは、
状態がそのまま保たれている可能性もあり、
恐れ多くて出来ないでしょうが、
上杉家廟所に安置されているその甕を、
現在の科学技術で非破壊検査すれば、
謙信の容姿が拝めるかもしれません。
「内堀」。
米沢城の内堀は全て現存しています。
「上杉伯爵邸」。
二ノ丸跡にある13代上杉茂憲の邸宅跡。
明治29年に建てられましたが、
茂憲は大正8年に死去していますが、
その1か月後に大火で焼失しています。
後の大正14年に3年の歳月を掛けて再建。
先の大戦後に進駐軍将校の宿舎なった後で、
米沢市に譲渡されて公民館となり、
現在は米沢の郷土料理店となっています。
「上杉鷹山公像」。
上杉伯爵邸の前庭にある上杉鷹山の胸像。
鷹山は[かてもの]の手引書を編纂し、
凶作に備えていました。
これは専門家による検討を経て、
領民に配付した手引書で、
主食の糧になる植物82種を挙げ、
それぞれの食べ方を詳しく説明し、
各種保存食のレシピや栄養の知識が、
詳しく述べられていたようです。
これらを応用した郷土料理が今に伝えられ、
米沢市民の生活に脈々と息衝いるという。
ここでそれらの郷土料理が食べられます。
「戊辰戦役米沢藩総督 色部長門追念碑」。
庭園の西側にある色部長門守久長の慰霊碑。
色部長門は米沢藩の新潟総督として出陣。
新政府軍の海上砲撃で新潟が炎上すると、
被害の拡大を避ける為に退却しますが、
敗走の責を取るために新政府軍を攻撃し、
関屋の茄子畑で自刃したという。
米沢藩は戦争の責任者を色部長門とし、
新政府に届けた為に処刑者はいません。
色部家は第4次川中島の戦いで活躍し、
血染めの感状を与えられた色部勝長の系譜。
代々米沢藩の家老を務めていましたが、
久長が戊辰戦争の責任となった為に断絶。
明治16年に再興が許されて、
実子の康長が家督を継いでいます。
「中堀」。
米沢市児童会館の傍に中堀が残っています。
子供達が何人か釣りをしていますが、
中堀は釣り禁止ではないのかな?
のどかで良いですね。
何が釣れるのでしょうか?
米沢藩3代藩主上杉綱勝は継嗣なく死去し、
無嗣断絶の危機に立たされますが、
会津藩主保科正之が奔走し、
吉良家に嫁いだ綱勝の妹の子を、
綱勝の末期養子に迎えさせて、
断絶の危機を脱しています。
この恩から会津藩と新政府の仲介に努め、
仙台藩と交渉を重ねますが不首尾に終わり、
奥羽諸藩を招集して白石会議を開催。
嘆願書を奥羽鎮撫総督府に提出しますが、
却下された事と世良修蔵の暗殺によって、
白石盟約、奥羽越列藩同盟の締結を経て、
戊辰戦争に移行する事となります。
米沢藩は主に旧領の越後方面に出兵。
北越戦争で敗北し土佐藩の仲介で降伏。
新政府軍となって庄内藩と戦いました。
上杉家は関ケ原の戦い後の厳封の他、
江戸初期の厳封で15万石となっています。
上杉鷹山の改革も藩を正常に戻しただけで、
それほど財力があったわけでもありません。
仙台藩と肩を並べるには荷が重く、
早々の降伏も仕方ないものだったかも。
厳封されぬままの30万石であったならば、
少しは違ったかもしれません。
それならば会津への恩はありませんし、
上杉鷹山の登場もなかったのかな?
【米沢藩】
藩庁:米沢城
藩主家:上杉家
分類:15万石→18万7000石、外様大名(国持)
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福島藩板垣家の居城。元々は米沢領。
・宮崎県児湯郡高鍋町 高鍋城跡
名君上杉鷹山は高鍋藩秋月家出身。
・山形県上山市 上山城
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