山形県米沢市 米沢城跡②

つづき。
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上杉神社」。
米沢城本丸跡に鎮座する上杉神社
上杉謙信の遺骸は、鎧を着せて帯刀させて、
甕に入れて漆で密封されたという。
この甕は上杉家の移封と共に移動し、
関ケ原の戦いの後に上杉家が米沢藩に移った際にも、
米沢城の本丸に御堂を建てて安置され、
明治維新の後、歴代藩主が眠る御廟へと移されます。
そして城内に留まる謙信の霊魂を祀る為、
この上杉神社が創建されました。


拝殿」。
創建当時の社殿は大正8年の大火で全て焼失。
翌年に再建されたものが現在の社殿です。

しかし米沢藩は謙信の遺骸をずっと持っていた訳で、
そういう藩って僕の知る限りありません。
甕に納められた軍神の遺骸は、
神仏の宿る宝物のようなものだったのでしょうか?
漆で密閉されているということは、
死去後の状態がそのまま保たれている可能性もあり、
恐れ多くて出来ないでしょうが、
上杉家廟所に安置されているというその甕を、
現在の科学技術で非破壊検査すれば、
謙信の容姿が拝めるかもしれませんね。


内堀」。
米沢城の内堀は全て現存しています。


上杉伯爵邸」。
二ノ丸跡にある元13代藩主上杉茂憲の邸宅跡。
明治29年に建てられましたが、
茂憲は大正8年に死去していますが、
その1か月後に大火で焼失しています。
後の大正14年に3年の歳月を掛けて再建。
先の大戦後は進駐軍将校の宿舎として使用された後、
上杉家より米沢市に譲渡されて公民館となり、
現在は米沢の郷土料理店となっています。


上杉鷹山公像」。
上杉伯爵邸の前庭にある上杉鷹山の胸像。
鷹山は凶作に備え「かてもの」という食の手引書を編纂。
専門家による検討を経て領内に配付しました。
主食の糧になる植物82種を挙げ、食べ方を詳しく説明し、
各種保存食のレシピ、栄養の知識が述べられています。
米沢にはこれらを応用した郷土料理が今に伝えられ、
生活に脈々と息づいるという。
上杉伯爵邸ではそれら郷土料理が食べれるそうです。


戊辰戦役米沢藩総督 色部長門追念碑」。
上杉伯爵邸庭園の西側にある色部長門守久長の慰霊碑。
色部長門は、米沢藩の新潟総督として出陣。
新政府軍の海上砲撃で新潟の町が炎上すると、
被害の拡大を避ける為に退却しますが、
敗走の責を取るために新政府軍本陣を攻撃し、
関屋の茄子畑で自刃したという。
戦後、米沢藩は戦争の責任者を色部長門とし、
新政府に届け出た為に処刑者は出ませんでした。
色部家は第4次川中島の戦いで活躍し、
謙信に血染めの感状を与えられた色部勝長の系譜。
色部家は代々米沢藩の家老織を務めていましたが、
久長が戊辰戦争の責任となった為に断絶し、
明治16年に再興が許されて子の康長が継いでいます。


中堀」。
米沢市児童会館の傍に中堀が残っています。
子供達が何人か釣りをしていますが、
中堀は釣り禁止ではないのかな?
のどかで良いですね。何が釣れるのでしょうか?

米沢藩3代藩主上杉綱勝は継嗣なく死去し、
無嗣断絶の危機に立たされますが、
会津藩主保科正之が奔走し、
吉良家に嫁いだ綱勝の妹の子を末期養子に迎え、
断絶の危機を脱しています。
この恩から会津藩新政府の仲介に努め、
仙台藩と共に交渉を重ねますが不首尾に終わり、
奥羽諸藩を招集して白石会議を開催。
嘆願書を奥羽鎮撫総督九条道孝に提出しますが、
これが却下された事と世良修蔵の暗殺によって、
白石盟約奥羽越列藩同盟の締結を経て、
戊辰戦争に移行する事となります。
米沢藩は主に旧領の越後方面に出兵しますが、
北越戦争で敗北し、婚戚関係にある土佐藩の仲介で降伏。
新政府軍の一員となって庄内藩と戦いました。

上杉家は関ケ原の戦い後の厳封の他、
江戸初期の厳封で15万石となっています。
上杉鷹山の改革も藩を正常に戻しただけで、
それほど財力があったわけでもありません。
62万石の仙台藩と肩を並べるには荷が重く、
早々の降伏も仕方ないものだったかもしれませんね。
厳封されぬままの30万石であったなら、
少しは違ったかもしれませんが、
それならば会津への恩はありませんし、
上杉鷹山の登場もなかったのかな?

【米沢藩】
藩庁:米沢城
藩主家:上杉家
分類:15万石→18万7000石、
   外様大名(国持)

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