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毘沙門天の化身として戦では無敗を誇り、
軍神と称えられた義の武将上杉謙信。
米沢藩上杉家はその謙信を藩祖とします。
謙信は生涯不犯を貫いた為に子は無く、
溺死した親戚長尾政景の子を養子とし、
これが後の上杉景勝となりました。
天正5年に京への遠征を決意した謙信は、
織田信長勢を破りながら京都を目指し、
一時帰還した春日山城で脳溢血の為に急死。
遠征は中止となっています。
謙信の養子は景勝の他に上杉景虎がおり、
※他に上条政繁が養子となっています。
この2人を擁立して家中が二分して対立し、
お家騒動[御館の乱]が勃発。
内乱は景勝の勝利で終焉しますが、
この乱で上杉家の軍事力は大幅に低下。
周辺国に脅かされることになりましたが、
信長が倒れて豊臣秀吉が台頭してくると、
景勝は比較的早い段階で秀吉に臣従。
秀吉の信任を得て五大老の一人に選ばれ、
会津120万石に加増移封となりました。
秀吉の死後に徳川家康の影響力が強まると、
景勝は支城の補修や神指城の建設を開始。
これを家康が弾劾した為、
家老の直江兼続が直江状を家康に送り、
これを傲慢無礼として会津征伐が決定。
直ちに関東諸大名に陣触れが出され、
軍勢が会津に向けて出発します。
これを好機として石田三成が大坂で挙兵し、
その報に家康は会津征伐と中止して反転。
天下分け目の関ヶ原の戦いが起こりました。
上杉勢は伊達政宗や最上義光と戦いますが、
※慶長出羽合戦。
関ヶ原で家康が勝利したことにより降伏。
景勝と兼続が共に上洛して家康に謝罪し、
上杉家の存続が許されることになりますが、
会津120万石から米沢30万石に、
大幅な減封となっており、
米沢藩が立藩することになります。
「米沢城絵図(現地案内板より)」。
米沢は会津時代は直江兼続の所領でしたが、
兼続は執政として若松城に詰めていた為に、
城下は整備が整っていなかったという。
上杉家の入城と共に整備が行われますが、
90万石もの減封で財政難の中、
直江兼続主導の許で町割りや開墾、
治水が行われて藩政の基礎が造られます。
「松が岬公園(米沢城本丸跡)」。
米沢城本丸跡は松が岬公園となっています。
本丸大手橋の舞鶴橋は現存遺構。
[毘]の旗印にワクワクさせられますね。
「上杉謙信公之像」。
藩祖上杉謙信の銅像。
軍神である謙信は約70回もの合戦を行い、
生涯無敗を誇ります。
軍装、武器、編成などは他との相違は無く、
用兵、指揮による強さであるとされており、
野戦の采配は神がかりとも称されました。
「従三位上杉曦山公之碑」。
米沢藩12代藩主上杉斉憲の顕彰碑。
ここにはかつて三階櫓が建っていました。
曦山は斉憲の号で勘違いしやすいのですが、
9代藩主上杉鷹山の碑ではありません。
斉憲は幕末の藩主で開明的だったという。
藩政改革や軍制改革にも成功し、
慶応2年には3万石の加増も受けています。
戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の総督に就任。
降伏後に隠居し明治22年に死去しました。
この碑は旧藩士により建立されたもので、
揮毫は有栖川熾仁親王、撰文は勝海舟。
「伊達政宗公生誕の地」碑。
米沢城は伊達政宗が誕生地でもあります。
祖父伊達晴宗は桑折西山城より本拠を移し、
以後は政宗の代まで伊達家の本拠地でした。
「天地人」像。
上杉景勝と直江兼続の主従像。
大河[天地人]を記念して建立されたもの。
[天地人]は兼続を主人公とした作品で、
兼続の知名度を全国的に上げました。
「上杉鷹山公之像」。
米沢藩中興の祖9代上杉治憲(鷹山)の像。
米大統領ルーズベルトやJFKも、
上杉鷹山を尊敬していたという。
米沢藩の慢性的財政難の克服の為に、
質素倹約・殖産興業・田畑の開墾等の実施、
養蚕・織物等の開発、農村振興を行い、
天明の飢饉では他藩で餓死者が多発する中、
非常食で餓死者を出さなかったという。
「上杉神社」。
参道をまっすぐ進むと上杉神社。
少し長くなったので続きは次回。
つづく。
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・宮城県仙台市 仙台城跡
奥羽越列藩同盟の盟主仙台藩の藩庁跡。
・宮城県白石市 白石城
列藩会議が開かれた仙台藩の支城跡。
・宮崎県児湯郡高鍋町 高鍋城跡
名君上杉鷹山は高鍋藩秋月家出身。