岡山県岡山市 大光寺/足守藩木下家墓所

豊臣秀吉の正室北政所の兄木下家定は、
関ヶ原の戦いで中立を保ち、
足守に2万5千石を与えられました。

家定の死去の後、
幕府は遺領を長男と次男で分ける様に指示。
しかし長男木下勝俊が遺領を独占した為に、
次男木下利房が不服として幕府に訴え、
勝俊は幕命違背として改易されました。
後に利房は大坂の陣において戦功を上げ、
改めて旧領の足守を与えられて以後、
12代続いて明治維新を迎えています。


山門」。
足守藩第4代木下利当が創建した菩提寺。
なんだか荒れ果てている様子。


本堂」。
参道を歩いて本堂にたどり着きますが、
どうも廃寺となっている様子です。

木下家の墓所は本堂の裏手ですが、
山門を出て北側よりしか行けません。

足守藩木下家墓所」。
墓所への参道を進むと墓所が現れますが、
藩主家の墓所はその一番奥の高い位置です。


敬文院殿前肥州観翁慧定大居士」。
5代藩主木下㒶定の墓。
赤穂藩浅野家赤穂事件で改易された際、
龍野藩2代脇坂安照と共に赤穂城に赴き、
城の受取を行った事で知られます。
藩政においては善政を布いて民を富ませ、
家臣の教育にも力を入れていたという。


観光院殿前濃州性峯高潔大居士」。
6代藩主木下利潔の墓。
5代㒶定には実子がおらず、
弟の木下利安を養嫡子としていましたが、
利安は素行が悪かった為に廃嫡。
同族の日出藩木下家より木下㒶福を迎え、
養嫡子としますが早逝してしまい、
木下藤栄の三男木下利潔を養嫡子とし、
利潔は19歳で家督を相続します。
10年の治世の後に病死。
3歳の息子木下利忠が跡を継いでいます。


瑞麟院殿利嶽元徽大居士」。
9代藩主木下利徽の墓。
病弱で政務もままならなかったとされ、
僅か3年で隠居しており、
養嫡子木下利徳に家督を譲ります。
とはいえ隠居後50年近く生きており、
その死は12代木下利恭の就任後でした。

他の藩主墓所は東京の泉岳寺でしたが、
現在は無縁墓として廃棄されたとか。
※未訪問の為未確認です。


天章院殿温良利玄大居士」。
杉原木下宗家14代当主木下利玄の墓。
白樺派の歌人として知られています。
11代木下利愛の次男木下利永の次男で、
伯父の13代木下利恭の死去により、
僅か5歳で家督を継ぎました。
東京帝国大学卒業後に国文講師となり、
その傍らで歌人として活躍。
武者小路実篤志賀直哉らと交友し、
反アララギ派大合同誌日光に参加しました。

足守藩木下家の系統は杉原を名乗っており、
備後国品治郡の地頭であったという。
そしていつの頃か尾張に移住し、
杉原家の娘おね木下藤吉郎と結婚、
後に兄杉原孫兵衛に木下姓が与えられます。
その後も藤吉郎の立身出世に沿って、
羽柴姓や豊臣姓を拝領。
杉原木下家は江戸時代になってからも、
本姓を豊臣と名乗る事を許され、
華族制度でも豊臣朝臣とされました。

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