山家藩谷家の大祖谷衛好は斎藤道三に仕え、
斎藤家が滅びると織田信長に仕えました。
始め谷野を称して谷に改めていますが、
いつ頃改称したのかはわかりません。
羽柴秀吉の与力として三木合戦に参加し、
毛利勢の猛攻を受けて衛好は討死。
子の谷衛友はその場で父の仇を討ち、
初陣ながら戦功を挙げました。
信長は衛好の死を憐れむと共に、
仇を討った衛友の武勇を称え、
衛好の所領を加増して衛友に相続させます。
その後は秀吉の許で大名に出世。
文禄の役の功で国光の刀を与えられました。
衛友は細川幽斎を歌道の師と仰ぎますが、
丹波、播磨の諸大名が西軍となっていた為、
衛友もこれに従わざるを得ず、
師の守る田辺城を攻撃しています。
しかし西軍には幽斎を師と仰ぐ武将が多く、
積極的に攻撃を行わず朝廷の命で休戦。
関ヶ原の戦いで東軍が勝利した後は、
幽斎と通じていたとされて、
所領を安堵されるに至りました。
「仁王門」。
覚応寺は2代谷衛政を開基とする菩提寺で、
元々は空也上人開基の願成寺とのこと。
この仁王門は文字通り仁王像が安置され、
現在は京都国立博物館で保存されており、
10年に1回展示されているようです。
「本堂」。
覚応寺は現在無住の寺であるとの事ですが、
荒れているわけではありませんし、
窓から覗く本堂の内部も綺麗な様子でした。
市内の照福寺が管理されているようですし、
地元の人達が守っているのでしょう。
「谷家墓所」。
寺の山手にある谷家墓所。
墓石は大きな岩が建てられているのみで、
墓碑銘は全く刻まれていません。
6基ありましたが誰の墓なのか不明。
風化とか欠けたとかではなく、
始めから何も無かった様子。
このような大名墓は初めてです。
一段上がった場所には、
累代墓と頌徳碑があります。
「谷家累代之墓」。
中台に谷子爵家と刻まれており、
子爵家となった藩主家の墓とわかります。
「大祖谷大膳亮衛好公
藩祖谷出羽守衛友公頌徳碑」。
大祖谷衛好と藩祖谷衛友の頌徳碑。
衛好と衛友は試刀術を独自に編み出し、
刀剣の性能を品評していたという。
幕府の御様御用である山田浅右衛門は、
この谷家の流派であったという。
荒れ果てた藩主家菩提寺は多くありますが、
無住の寺ながら良好に保たれています。
これは地元の努力によるものでしょう。
前記した仁王像が寺の財政難から、
海外に売られそうになったようで、
これが多くの人々の骨折りによって、
京都国立博物館に引き取られる事となり、
貴重な文化財の海外流出を防いだようです。
是非とも末永く守って頂きたいですね。
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