下関市長府 大乗寺

長府にある大乗寺は嘗て浄厳寺と呼ばれ、
明治になって大乗寺に改称されました。
ここに興膳昌蔵の墓があるという。


大乗寺山門」。
長府商店街の北端。
隣は一字庵菊舎の墓のある徳応寺


本堂」。
大乗寺墓地は本堂の裏にあります。


興膳家墓所」。
本堂から裏へ廻るとすぐにありましたが、
興膳昌蔵の墓石は見当たりません。
そこで本堂にもどって訪ねると、
男前の住職さんが説明してくれました。
昌蔵さんの墓石は割られてしまい
 ここにはありません。
 死んでも恨まれたのでしょうね。

 墓石は大乗寺の飛地にあります
とのこと。

興膳昌蔵は長崎で医学を学んだ蘭医。
家族で長府に移り住み、
兄の興膳慎平(上の写真の左手の墓)と共に、
西洋医学で長府の病人を救いました。
やがて藩にもその名声が届き、
兄慎平が藩医として召し抱えられます。
昌蔵の方は医学に留まらず、
藩に海外貿易や竹島の開拓を提案するなど、
先見の明がありました。
しかし夷人との密貿易を提案する昌蔵は、
攘夷志士達からは賊漢に映りました。

そんな中で昌蔵は長州藩士福原清助と共に、
停泊している英国船に近づきます。
英国船に乗り込もうとしたのか、
偵察の為に近づいたのかはわかりません。
とにかくそれを目撃したのは、
阿川毛利家家臣田村内蔵之助と他一名。
彼らは昌蔵を暗殺してしまいます。
※一緒にいた福原清助は殺されていません。
そんな昌蔵ですから暗殺された後も恨まれ、
墓石を割られたのでしょうね。

その後に田村内蔵之助は昌蔵の弟により、
仇討されて死亡しました。
昌蔵の墓の場所は教えてもらいましたので、
後日行ってみます。


奇兵隊士の墓」。
橋本虎吉墓中村元之進墓
この両名は小倉戦争開戦の日に、
大勝利で下関に帰還する際、
奇兵隊士18名を乗せた舟が、
長州艦庚申丸と接触して沈没してしまい、
この2名が犠牲となったそうです。

ここには下関戦争戦死者の墓もあるらしい。
近いうちにもう一度行ってきます。

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