長州赤間関 菊屋平七

丸亀にある金刀比羅宮の一の鳥居「中府の大鳥居」は、
全国の富豪らによって明治4年に寄進されたものですが、
その中に「長州赤間関 菊屋平七」が名を連ねています。

この菊屋平七とはどういう人物か?
富豪とはいえ商人に関する資料は少なく、
判った範囲はそれ程多くありませんが、
赤間関菊屋西南部町(現南部町)の倉敷業者で、
※倉敷業は倉庫業と為替業を兼ねたもの。
幕末期の下関で一二を争う富豪でした。

この菊屋は専念寺の下あたりにあったようで、
元々は秋穂から出て来た商人であったという。
幕末期の当主は徳永源衛と云い、
屋号として菊屋平七を名乗っていました。
※何人かの当主も平七を名乗っています。
人格者で温和な人物であったそうで、
維新後は米会所の理事も務めたようです。

その後の菊屋についてはわかりませんでしたが、
他の下関商人と同様に没落したものの思われます。

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 菊屋は専念寺の下あたりにあったという。