つづき。
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安政6年10月25日。晴。
①松崎を立って山家へ出る。
福岡県筑紫野市 山家宿跡
この道ははぜが多く、
宝満山は筑前より筑後の方が高く見える。
このあたりの道は険しいけれど、
長岡から越後の道とは比べものにならない。
平野部に出ると返り馬を勧められるが、
江戸より一度も馬や駕籠に乗らず、
荷物も持たせなかったので、
断ったらそれ以上は進めて来ず、
道連れになって話をする。
その後にまた進められたので、
三里ばかり②飯塚まで乗った。飯塚に宿泊。
福岡県飯塚市 飯塚宿跡
※馬子の頭脳プレー。
仲良くなったら断り辛いですよね。
安政6年10月26日。晴。
午前4時頃、
飯塚を立って川に沿って数里進む。
③小倉へ午後5時頃に着く。
城下から大橋を渡って宿屋まで行く。
福岡県北九州市 常盤橋と小倉宿跡
この辺りは随一賑やかである。
安政6年10月27日。晴。
これより船に乗る為、宿に昼過ぎまで居る。
これより下関へ渡る。
カンリウ島の脇を通り、
④下関の船宿西南部町米屋吉兵衛宅で休憩。
その後に諸々を見物して硯などを買う。
女郎町は少し上にあるために行かず。
女郎町、安徳帝へは行っても良いが、
日も暮れてきたので行かなかった。
午後10時頃に船に移り間もなく船が出る。
全一日の逗留となる。
※薩摩や萩にも行きたかったようですが、
予定通りにはいかずに帰路につきます。
後の敵となる両藩を訪問していたら、
歴史が変わったかもしれませんね。
カンリュウ島は巌流島。
10月25日~27日の行程。
安政6年10月28日。晴。
船中にて九州、四国、中国、その他島々、
風景の良いところは数々あれど、
名を聞いた場合も聞かなかった場合もあり、
一々覚えていない。
乗合の者が御本丸が焼失したと話している。
下関は余程情報が早く入るようで、
始めて聞いた際にはしばらく歎息した。
昨夜より夕方までに三十六里で、
①上関あたり。
この夜二十里で②御手洗に至る。
※江戸城本丸焼失の噂が流れていますが、
火災は10月17日の事で僅か9日で、
下関に伝わっています。
安政6年10月29日。晴。
薩摩藩の剣客が乗合い江戸に出るという。
義光の朝鮮征伐より帰国した際の歌を歌う。
見事な豊後の刀を見せてもらう。
蘭画の話をすると乞われたので見せた。
熊本藩の人もあり彼は通な人物。
他に江戸の者、大坂の者、柳川の者、
豊後の出家4人、中国の者数名がいた。
余りに大勢にて猥雑な話もが多く、
風景を楽しむより外なかった。
※朝鮮征伐は義光ではなく島津義弘です。
この薩摩の剣客は誰でしょうね。
安政6年11月朔日。昼後より不天気。
昨日今日は船の掛りしところもあって、
かれこれその前より遅れて、
昼時分に③鞆に到着。
これより飯に餅を食い、
入湯して保命酒を飲む。
海に沿って小山を越えて④福山へ。
午後4時頃より風雨となって霰も降り、
しきりに寒くて困った。
船中で福山名物油餅の話を聞いた。
なるほど旨いが人は悪いところである。
文武宿に宿泊。
※保命酒は鞆の浦の名酒。
福山の名物は油餅ではなく柚餅。
柚と油では全然別物ですね。
10月28日~11月1日の行程。
安政6年11月2日。曇。
午前10時頃まで諸々を徘徊して、
①福山を出る。
②一橋領七日市に宿泊。
※七日市は一橋徳川家の領地でした。
安政6年11月3日。晴又曇。
朝、七日市を立ちこれより山に掛かる。
登りきった所に奈須野与市之墓があった。
松山までは皆山。
家も数々あるが危険な道も多く、
その道は曲りくねり絶壁も多い。
松山川を渡って午後5時頃に③松山に到着。
荷物を預けて、そのまま進昌一郎宅へ行く。
その夜は花屋に宿泊。
11月2日~3日の行程。
これにて旅の行程は終了。
以後、河井は松山に滞在。
塵壺は12月22日まで書かれています。
河井自体は翌年3月まで松山で学び、
江戸に戻った後に横浜に滞在してから、
故郷の長岡に帰りました。
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