河井継之助の塵壺⑨

つづき。
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安政6年9月29日。晴。
朝、①山中を出発して舟木を通る。
山口県宇部市 船木宿跡
この宿場はが名物で石炭が出るところ。
三韓征伐の時にこの山で船を造ったという。
また、赤間石硯もこの辺りより採掘される。
人情も穏かで長州路は宜しく思う。
不作であれば減税があり、
豊作でも余計に徴収はしない。
賭博は厳禁でもし犯す者あれば島流し
見物人でも4~50日は牢屋に入るらしく、
近頃は賭博をする者がいないという。
大国の風俗は奥ゆかしく、
中国往来で一番と思う。
長府に宿泊。
下関市長府 長府宿跡
この辺りの島々は皆の持領。
藩札も格別に良い。
西国は藩札で政治の善悪がわかる。
※長州人の人情や政治を褒めていますが、
 後にこの長州藩と戦う事になります。
 賭博の取り締まりに触れていますが、
 後に自藩でも賭博を禁止しています。

 
安政6年9月30日。晴。
長府藩は本家と違って政治は良くない。
領民も藩を褒めず下関の者の話でも、
下関が無ければやっていけないという。
長府より二里ばかり行って壇之浦を通る。
九州と僅か10丁あるかないかと思われ、
これ程の海の流れが速いのは初めてみた。
安徳帝の御社は急いでいるので参詣はぜず、
阿弥陀寺より豊前の内裏へ渡り、
福岡県北九州市 大里宿跡
内裏より二里弱で小倉に入る。
福岡県北九州市 常盤橋と小倉宿跡
庄内酒田の本間と云う人と道連れとなる。
長崎に遊学中でから帰る途中だという。
身なりといい持物といい雅で、
道案内も楽になると思っていたら、
何度か通った道を間違って狼狽え、
あきれ果てて自ら道を聞いて本道に出た。
三里行って③黒嵜に宿泊。
福岡県北九州市 黒崎宿跡
※長府藩の評判は良くない様子。
 庄内酒田の本間といえば大庄屋本間家
 方向音痴だったようで、

 呆れて置いて行ったようです。

安政6年10月1日。晴。
黒嵜より山に掛かり近道を行く。
川を渡りソコ井ノという所へ出て、
赤間の宿を通り、
福岡県宗像市 赤間宿跡
畦町に宿泊。
福岡県福津市 畦町宿跡
※ソコ井ノは底井野の事。

安政6年10月2日。晴。
畦町をたって香椎宮の前を過ぎる。
福岡県福岡市 香椎宮
道は黒田候の往来ゆえに広く、
並木松も茂って大大名の風格を備える。
筥嵜八幡へ参詣。本堂の造りが見事。
福岡県福岡市 筥崎宮
海辺に出て本道を通らず松原を通り、
博多に出て宿を取って見物に出かける。
福岡県福岡市 博多宿跡
天神町大名町は大家があるところ。
東照神君の社に拝礼し町を通って宿に帰る。
人吉藩士と同宿。
夜に柳町なる女郎町を見る。
[よか娘ば奥に居る]としきりに勧められ、
その言葉が可笑しくて大笑いした。
同宿の賀州人は町人のようで町人でもない。
日本中の諸藩の様子を知る希代の男である。
尋ねると薬を売って遊んでいるという。
話を聞きたかったが急いでいるので別れた。
※筥嵜八幡は現在の筥崎宮の事。
 東照神君の社は荒津山にあった東照宮で、
 維新後に廃社となっており、

 跡地に光雲神社が建立されています。
 同宿の賀州人は加賀藩の探索方か?
 その割にペラペラ喋っているようです


安政6年10月3日。晴。
朝出立する前に人吉の士が
用向きがあって来たが、
 用が済まずで退屈ゆえ、
 大宰府までお供する」という。
前夜より話しているが、
互いに名乗らないまま懇意になる。
大宰府への道で何用で来たのかと尋ねると、
鎗剱の道具に致す牛皮を買いに来たという。
武士のようで経済に精通した役人と思われる。
⑥大宰府に行って天満宮を拝す。
結構なもので額は唐人の筆が多く、
堂の中の燈籠や狛犬、
その他何事も善美を尽くしている。
九州随一の宮と云うのもわかる。
宝満山という筑前第一の高山があって、
登ってみたいが時既に遅く不可能であった。
彼も博多には帰らずに行くところがあると、
半道ばかり行って礼を言って別れた。
大宰府より低い山を越えて原田の宿へ出る。
福岡県筑紫野市 原田宿跡
これは長崎街道である。
対馬藩領の⑦田代に宿泊。
佐賀県鳥栖市 田代宿跡


9月29日~10月3日の行程。

つづく。
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