河井継之助の塵壺⑪

つづき。
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安政6年10月18日。晴。
朝、石嵜に暇乞いのついでに、
蘭画を見に行くが、
荷物が片付いていなくて見れなかった。
午前9時頃に①宿を出発。
秋月が山の頂上付近まで送ってくれた。
玉子2個と酒1合で別れる。
おかしな男だが情が深くありがたい。
日見峠を越えて往来より半道ばかり入り、
網場村より船に乗る。午後1時頃に出航。
温泉を左前に見て、右前に天草島
右西の方は唐まで何もないところ。
午後8時頃、島原藩領の③南串村に着き、
船頭の家に宿泊する。
※約半月の長崎遊学を終えて熊本へ。
 石嵜は唐通詞石崎次郎太の事。
 何故か雲仙の事を温泉と言っています。


安政6年10月19日。晴。
南串を立ち温泉越えをしようと思ったが、
道がわからない。
島原候の死去にて渡海が厳しくなっている。
長崎の者が大江より渡るというので、
自分もその道へ行くことにするが、
その彼は女連れなので先に行く。
しかし道を間違えてしまい、
彼らの倍の道を歩く。
余程疲れたので怪しい茶屋で休憩すると、
長崎で同宿の二本松の画工増子泰助が来る。
よくよく縁ありと話し同行。
しばらく行くと彼等に追いつく。
④大江に到着し彼らは叔父の家へ、
長崎県南島原市 大江湊
自分と増子は別の家に行く。
夜10時頃に船頭が迎えに来たので乗船。
少し深いところに出て、
その夜は此に居宿する。


10月188日~19日の行程。

安政6年10月20日。朝晴。
午前5時頃に①船が出る。
午前8時頃より強風となるが、
間もなく止んだ。
船頭は二人。
老人十蔵と若者八蔵の叔父甥の関係。
十蔵は老いぼれて何の役にも立たない。
しばらくすると四方に霧が起こり、
逆風となる。
やむを得ず艫をおして進むが風は強くなり、
碇を下ろして様子を見るが、
船の中には水が入り、
これを八蔵が一人で汲み出している。
増子は経を読み琴平を念じて可笑しいし、
私も酔って手足も動かせない。
八蔵の案で風南に廻り、
船を肥後に向けて走行するが、
自分は臥してそれがわからなかった。
熊本の川筋の船着きには、
強風で入る事が出来ず、
数百間先の石垣脇に到着。
午後7時から8時あたりであった。
増子は私を起し[着いたりぃぃ」と喜ぶ。
ここは肥後の新田で②学領との事。
今宵はここに泊まる他無しと野宿。
助かったのは八蔵一人の働きであり、
彼は非常に親切であった。
※遭難しかけてます。
 十蔵は普通に失禁するほどボケており、
 殆ど八蔵一人の活躍で難を逃れました。


安政6年10月21日。晴。
朝、天気は定まらないが、
嵐は去ったようで風はない。
引潮で船が陸に上がっていた。
増子と上陸する事にし、
船賃200文のところ1朱100文渡すと、
大喜びして道案内しながら、
荷物も持ってくれて十町程も送ってくれた。
気の毒な程良い男であった。
これより熊本は三里。
土手道を進んで途中の民家で休憩。
天気も次第によくなって、
昼過ぎに③熊本に到着。
城の脇の高所に2つの神社があって、
その下で昼飯を食う。
城の西を通って清正公の社へ行く。
熊本県熊本市 本妙寺/加藤清正廟所
田舎には珍しいほど賑やかで、
浅草にも匹敵するだろう。
ここで増子と別れて城下に入る。
山田先生の用で木下真太郎宅へ行くが留守。
若い武士に道を尋たところ、
案内して宿まで教えてくれた。
浜田屋甚八で宿泊。
午後4時に結髪入湯して、
木下への土産に何か無いかと尋ねると、
朝鮮飴という当初の名産があるという。
食べても甘くもない駄菓子であったので、
煉羊羹はないかと聞くとあるという。
注文してみるとかなり巨大であった。
試食すると子供用の羊羹のようだったが、
これなら進物として結構なものというので、
嵩があって良いだろうと苦笑いして、
持ち帰った。
※八蔵は気の毒な程の良い人。
 船賃も相場より安く代金を多めに渡すと、
 荷物を持って案内までしてくれます。
 木下慎太郎は熊本藩儒木下犀潭の事。
 朝鮮飴は熊本の名菓。

 河井のお気に召しませんでしたが、
 モチモチ触感の美味しいお菓子です。



10月20日~21日の行程。

安政6年10月22日。晴。
朝早くに木下を訪ねるが外出中。
曰く午後2~4時頃にはいるという。
帰ったらお迎えに上がるというので、
宿に戻る。
同宿の坂部の者の用事で一緒に出て、
お城など諸所を見物して宿に帰り、
昼食を食べていたら、
木下の倅が迎えに来て木下邸へ。
木下に山田の手紙を渡すと大変喜び、
その後は話をした。
夜分おそくまで話して山田への返事を貰い、
宿に帰ったのは午前3時頃。
それより①宿を出て三里行って、
植木に宿泊。
※河井は木下に心服した様子。
 半年でも随伴したいと思ったようです。


安政6年10月23日。晴。
朝早くに植木を立ち③山鹿を通る。
ここには湯治場があるがとても汚い。
母上に聞いた我が国のきらの湯のようだ。
これより南関という肥後境の番所がある。
その裏を通れば道が近くて楽なので、
皆が通るというので自分もそこを通る。
山を下りて筑後に入って休んでいると、
石炭が積まれておりどこのものか聞くと、
三池よりのものだという。
この日は④柳川領はる野町に宿泊。
※汚いと評された山鹿温泉ですが、
 勿論現在は綺麗です。
 長岡のきらの湯がよくわかりません。

 はる野町はみやま市山川町原町の事。
 
安政6年10月24日。晴。
はるの町は平野でこれより山は無い。
府中の手前より道は分れ、
久留米の城下へ行く、
その入口に柳川道がある。
柳川は三里も遠回りなのでやめた。
久留米は城市共に広くて賑やかできれい。
少し見物してから⑥松崎まで行く。
福岡県小郡市 松崎宿跡
筑後は沃野千里。
川は数々あって運湊は良く、
このうえなき上国である。


10月22日~24日の行程。

つづく。
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