金刀比羅宮の一の鳥居[中府の大鳥居]は、
明治4年に建立されたものですが、
[長州赤間関 菊屋平七]という人物が、
東側の柱に刻まれています。
この菊屋平七とはどういう人物か?
富豪とはいえ商人に関する資料は少なく、
判った範囲はそれ程多くありませんが、
菊屋は西南部町(現南部町)の倉敷業者で、… 続きを読む
長州赤間関 菊屋平七
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金刀比羅宮の一の鳥居[中府の大鳥居]は、
明治4年に建立されたものですが、
[長州赤間関 菊屋平七]という人物が、
東側の柱に刻まれています。
この菊屋平七とはどういう人物か?
富豪とはいえ商人に関する資料は少なく、
判った範囲はそれ程多くありませんが、
菊屋は西南部町(現南部町)の倉敷業者で、… 続きを読む
丸亀藩2代京極高豊は正室との間に、
男児3人を設けますが相次いで早逝します。
後に側室との間に男児が生まれていますが、
翌年に再び正室との間に待望の男児が誕生。
継嗣は正室の子京極高或が選ばれますが、
高豊は側室の子京極高通の為に、
別家を新設を幕府に申請しました。
高豊は2年後に病没し高或が家督を相続。
高通… 続きを読む
開港論を唱えて命を狙われた高杉晋作は、
琴平の侠客で日柳燕石を頼る為、
丸亀に上陸した後に琴平を目指します。
しかし晋作は直接琴平へ入らず、
旅籠「藤の棚」に入ったようで、
燕石の方からが出向きました。
「藤の棚 跡… 続きを読む
日柳燕石は琴平の侠客で尊皇家。
豪農加島屋惣兵衛の家に生まれ、
幼少期より儒学や国学、歌学も学び、
詩文や書画の才があったという。
その反面で侠気を持っていたようで、
21歳で家督を相続した後は、
33歳頃まで遊俠しており、… 続きを読む