丸亀藩2代京極高豊は正室との間に、
男児3人を設けますが相次いで早逝します。
後に側室との間に男児が生まれていますが、
翌年に再び正室との間に待望の男児が誕生。
継嗣は正室の子京極高或が選ばれますが、
高豊は側室の子京極高通の為に、
別家を新設を幕府に申請しました。
高豊は2年後に病没し高或が家督を相続。
高通には1万石の分知が認められ、
多度津1万石で多度津藩が立藩します。
※丸亀藩主は3歳、多度津藩主は4歳。
陣屋は置かれずに高通は丸亀城に居住し、
3代京極高文まで丸亀城内が藩庁でしたが、
4代京極高賢が多度津に陣屋が建設し、
以降は廃藩置県まで多度津藩は続きました。
多度津陣屋跡は宅地化されて遺構は無し。
大通りと家中の地名を分ける交差点に、
小さな庭園が設けられており、
そこに碑が設置されています。
「旧多度津陣屋蓮堀跡」。
蓮堀は藩主御殿と武家屋敷を分けた水堀で、
文字通り蓮が植えられていたのでしょう。
ここから西側が藩主御殿の敷地で、
東側に武家屋敷が軒を連ねていました。
「桜川」。
市街地を流れる短い川で、
三本の小川が合流して桜川となっています。
多度津陣屋はこの川を天然の水堀に利用し、
また水運にも使われました。
「旧たどつ藩お舟だまり跡」。
桜川が湾曲した外側の公園内にある跡碑。
湾曲した部分を利用して舟溜まりを造り、
年貢の荷揚げや物流の拠点としています。
「多度津町立資料館(旧浅見邸跡)」。
多度津藩士であった浅見家の屋敷。
浅見家は小物成奉行を務めた家柄で、
60俵扶持であったとされ、
多度津藩の中では上級に属しました。
現在は藩関連の資料を展示しています。
多度津湊は北前船寄港地で讃岐三白積出や、
※讃岐国の名産品の塩、砂糖、綿花。
海産物の積卸などの物資集散港であり、
金毘羅宮参詣客を乗せた金毘羅船も着港し、
大変に栄えていたとされます。
特に5代京極高琢は大規模な湛甫を構築し、
多度津湊を全国有数の良港に発展させ、
幕末には丸亀湊を凌ぐ繁栄を見せたという。
小藩としては珍しく軍制改革を行い、
大砲や小銃の鋳造、農兵赤報隊の設立、
小銃の大量買い付けを行っています。
これらの資金は多度津湊からの雑税と、
多度津七福人と呼ばれた豪商達の上納金で、
小藩ながら軍備の整った精鋭を揃えました。
これらは鳥羽伏見の戦いで新政府軍となり、
朝敵となった高松藩へも出兵しています。
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宗家である丸亀藩京極家の居城跡。
・兵庫県豊岡市 豊岡陣屋跡
同族の豊岡藩京極家の陣屋跡。
・京都府京丹後市 峰山陣屋跡
同族の峰山藩京極家の陣屋跡。