慶応2年11月、木戸貫冶(桂小五郎)は鹿児島に向かう途中、
長崎に立ち寄ります。
英国東洋艦隊もたまたま長崎に寄港しており、
木戸は司令官のジョージ・キング提督と会見。
会見の際にキング提督は下関への寄港と、
長州藩主への拝謁を強く求めてきました。
木戸は鹿児島に行くので即答できないと答え、
鹿児島からの帰路、下関で藩政府に手紙を書き、
拝謁の可否を考えてくれるように促します。
藩政府はこれを英国との繋がりを作る好機と考え、
藩主毛利敬親に具申すると、敬親もこれを許可。
世子毛利元徳と、岩国の吉川経幹が対応する事となります。
キング提督は藩主への拝謁を希望していたのに、
世子に対応させようとしたのはどうしてでしょう?
未だ攘夷論の根深い藩事情からか?
大藩の藩主がわざわざ提督ごときに会えるかと思ったのか?
めんどくさいので世子にさせようとしたのか?
とにかく藩主本人が出るべきでないと決定したのは、
下関での予定を、三田尻に変更した事からもうかがえます。
※下関は他藩人の通行も多く、
多難を避ける意味で三田尻に変更したのか?
キング提督側も三田尻での引見を了承。
下関から三田尻に向かいます。
三田尻では井上聞多が出迎え、厚狭毛利家家臣貞永永隼太邸に導き、
毛利元徳と吉川経幹が中門で出迎え、挨拶と酒宴を行いました。
しかし、キング提督は藩主拝謁を改めて強く要望した為、
早馬を山口まで飛ばして敬親を呼び、
いそいで三田尻に向かって、酒宴の中頃に敬親は到着しました。
ここでさらに盛大な酒宴を執り行い、饗応を尽くします。
キングも長州藩の好意に感謝し、翌日に艦内を案内することを約束。
午後5時頃に艦に引き上げました。
翌日、敬親、元徳、経幹は、丙寅丸で英国艦ユーリアラス号に向かう。
ユーリアラス号は日の丸を掲げ、礼砲を放って、楽隊に演奏させ歓迎。
前日の歓迎の感謝と進物の礼を述べ、艦内を案内します。
大砲発射の実演や、艦内での饗応なども行い、
キング提督と敬親、元徳のスリーショットの記念撮影も行われました。
とどこおりなく引見が終わったかに見えました。
藩主親子とキング提督のスリーショット。
・・・が、キング提督が英国公使パークスに報告したところによると、
鹿児島、宇和島、福岡で接触した人々から受けた好意と友情が、
三田尻では欠如している。また、外国人に対する猜疑心からの自由も
欠如していたように思ったと。
同席した通訳のアストンも藩主と多数の家臣に、
友好的な感情が感じられなかったとしています。
パークスもこの報告を受けて、
本国に「福岡藩より長州藩の歓迎が劣っていた」と報告しています。
これについては、ある程度仕方がないのかなと。
ついこないだまで攘夷の急先鋒であったわけですし・・。
また、他国は藩をあげて歓待できますが、
藩論変更したばっかりでまだまだ攘夷派も根強く、
できるだけ隠密に会見したいのが本音でしょう。
他藩の城や御殿と、三田尻の陪臣屋敷では無理もないでしょう。
※本来なら迎賓には三田尻御茶屋を利用するはず。
キング提督が期待していた歓迎には及びませんが、
とはいえ一応の有効関係は築けたようです。
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