大阪府阪南市 境橋/日本最後の仇討ち場

日本最後の仇討ち・・諸説ありますが、
明治4年4月16日の石貫の仇討ち
※藩府の許可を得た最後の仇討ち。
明治4年11月24日の旧金沢藩士の仇討ち
復讐禁止令前の最後の仇討ち。
明治13年12月17日の臼井六郎の仇討ち
※復讐禁止令以後の最後の仇討ち。
明治4年2月30日の高野の仇討ち
※上記より若干早いのですが、
 赤穂藩内の争いから生じた事件だった為、
 赤穂浪士事件と搦めて有名となっています。

これらが一応最後の仇討ちと呼ばれます。
これとは別に正確には最後ではないのですが、
最後の仇討ちと呼ばれる事件があります。

安政4年、土佐藩藩士廣井大六は、
同藩士棚橋三郎と口論の末に斬られ、
川に投げ込まれて命を落としました。
しかし棚橋は追放処分という軽い罪だった為、
殺された大六の子廣井岩之助は、
父の仇を討つ旅に出発。
岩之助は幕府より仇討免許状を受け、
※勝海舟の取り計らいともされます。
文久3年に棚橋が紀州に潜伏している事を掴み、
紀州藩の奉行所に仇討ちを願い出ると、
奉行所はこれを受けて棚橋を追放。
領外で本拠を遂げるべしとした為、
岩之助は国境の境橋で棚橋を待ち伏せ、
見事に仇討ちを達成したという。


境橋」。
紀州と泉州の国境を流れる谷川に掛かる橋。
現在は鉄筋コンクリート製となっています。
この橋の北詰が仇討ちの現場。


日本最後の仇討ち場」碑。
道路脇に設置された石碑。
棚橋は追放後に江戸松と名を変え、
加太浦人足となっていたようで、
ある意味で武士階級からすれば、
死罪より辛かったのかもしれません。
仇討ちの詳しい状況はわかりませんが、
役人に境橋まで連行されたと思われます。
人足となっていたので刀は無い筈
仇討ちの際は刀を借りたのか?
それとも丸腰で岩之助に斬られたのか?
この辺が知りたいところですが、
よくわかりませんね。

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