高杉晋作の支援者として真っ先に浮かぶのは、
廻船問屋「小倉屋」の白石正一郎ですが、
他にも酢醸造業「奈良屋」入江和作などが、
晋作に大きな支援をしていました。

入江和作といえば松陰門下入江九一の弟である、
後の内務大臣野村靖の旧名と同じですが、
同姓同名なだけで全く関係ありません。
また同じ下関の商人と言う事で、
白石と混同されることも多いようです。
白石は詳細な日記を残していますが、
入江は書物を残していませんので、
これが後世の知名度に繋がったのでしょう。
豪商とされる「小倉屋」白石正一郎ですが、
実際は豪商と呼ばれる程の財力は無く、
清末藩御用達の中小規模の商人でした。
それに比べて奈良屋は酢の醸造を生業とし、
商売も安定して資金力も豊富だったようです。
彼も尊皇攘夷の志を持っていたようで、
白石同様に尊攘志士達を支援しており、
土佐藩を脱藩した坂本龍馬は、
長州藩士小田村素太郎の紹介で入江を訪ね、
一時期奈良屋の世話になっていました。
功山寺挙兵の際にも二千両の大金を提供し、
晋作のクーデターの成功に貢献。
※ちなみに白石は他の奇兵隊士と同様に、
はじめは晋作の挙兵に反対しています。
そしておうのも入江和作の紹介だと伝えられ、
おうのの身請け金も入江が負担しており、
後に四国への逃亡資金も負担しています。
晋作は逃亡中に入江に手紙を書いています。
その内容を要約すると、
「聞多や俊輔にも手紙を出しません。
その他の諸君にも会うことがありましたら、
どうぞ宜しくお伝え下さい。
何かご用がありましたら、
日柳燕石までご連絡下さい。
貰ったお金はまだ残ってますが、
使い切ったら使者を送りますので、
どうぞよろしくおねがいします。」
入江はこれを読んで苦笑いした事でしょう。
こんな晋作を入江は最後まで面倒見ています。
商人達の度量はとっても大きいですねぇ。
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