東京都足立区 千住宿跡

千住宿日光街道及び奥州街道の初宿で、
水戸街道(佐倉道)の起点でもありました。
千住は運輸と交通の便が非常に良い場所で、
市場や物資中継地点としても発展。
また江戸っ子岡場所としても利用し、
大きな発展を遂げていたようです。


千住大橋」
徳川家康が江戸に入ってすぐの文禄3年に、
隅田川最初の橋として架けられた橋。
当初の橋は現在の上流200m程の場所で、
関東代官頭伊奈忠次によって架橋され、
工事の際に熊野権現に祈願したという。
これに倣い橋の架け替えの際は、
橋の余材を使って社殿の修繕等を行い、
その安全を祈願をしたとされます。
当初は江戸の防備上隅田川唯一の橋で、
単純に大橋と呼ばれていましたが、
後の大火の影響から両国橋が架けられ、
以降は千住大橋と呼ばれました。


奥の細道 矢立て始めの地」碑。
千住大橋を渡った北詰にある碑で、
松尾芭蕉奥の細道の旅の始まりで、
最初に句を詠んだ場所とのこと。
 行春や鳥啼魚の目は泪


千住宿入口」
100m程行くと国道4号線は左に曲がり、
直進する路地が旧街道筋。
足立市場東京千住魚市場の入口もあり、
芭蕉象や句碑も建てられています。


やっちゃ場跡」。
千住宿の南側は青物市場だった場所。
威勢の良い声が響く活気ある場所で、
やっちゃ場と通称されて親しまれました。


「掃部堤跡
」。
現在の墨堤通りには掃部堤が掘られ、
水害から千住宿を守ったという。

街道沿いから外れて墨堤通りを西へ。

千葉灸治院跡」。
坂本龍馬と婚約したとされる千葉佐那は、
生涯独身を貫いたようで、
この場所で鍼灸院を開いていたという。
実際に龍馬の妻となったお龍さんの方は、
色々と悪名を流して再婚もしていますが、
こちらはを立てていたようです。

再び街道沿いへ。

掃部宿跡」。
掃部堤から北側は掃部宿と呼ばれ、
当初の千住宿から延長された場所。
掃部堤を築造した石出掃部介吉胤に因み、
千住宿でも有力商人が集まっていたという。


千住宿高札場跡」。
大踏切通りが交差する場所が高札場跡。
千住一里塚の設置された場所でもあります。


千住宿問屋場・貫目改所跡」。
東京芸術センター前の広場の説明板。
ここに人馬の手配を行った問屋場と、
荷の重量検査を行う貫目改所がありました。
重い荷物を制限内と認めてもらえるように、
賄賂が飛び交ったとされています。


宿場通り」。
駅前通りを越えると宿場通りで、
千住宿の中心であった場所でした。
現在は飲食店街で人通りも多いようです。


千住宿本陣跡」。
宿場通り入って左手のそのうビル脇に、
見落としそうな跡碑が建てられています。
千住宿本陣秋葉市郎兵衛が務めており、
関東奥羽の諸大名の休憩宿泊の他、
日光山輪王寺門主も利用していました。

宿場通りを抜けて千住4丁目へ。

横山家住宅」。
数少ない千住宿の町屋遺構。
江戸時代後期の建造物とされており、
地すき紙問屋を営んだ松屋の建物でした。
彰義隊士が付けた刀傷もあるという。


吉田絵馬屋」。
横山家住宅向かいにある現在も続く絵馬屋
絵馬の他に地口行灯に貼る絵紙等も手掛け、
現在で8代目であるとのこと。

更に進む。

水戸佐倉道追分」。
歪なカタチの交差点が水戸街道との追分で、
東への細い道が水戸街道となり、
この場所が起点でした。
北への道が日光(奥州)街道となります。

千住宿は江戸四宿のひとつとされますが、
その規模は最大であったとされ、
人口も1万人に達していたという。
他の四宿と同様に公認の飯盛り女が置かれ、
150人の飯盛女が千住宿にいたようです。

■日光街道の宿場町
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