江戸初期の加藤家熊本藩(52万石)では、
一国一城令の例外として麦島城が認められ、
支城として城代が置かれていましたが、
元和5年(1619)の大地震により崩壊。
この為に2代加藤忠広は幕府の許可を得て、
球磨川の徳淵北岸に新たな城を建設します。
築城された城は松江城と呼ばれましたが、
これ以前の麦島城や更に前の古麓城も、
共に八代地方の主要城郭であった為、
これら全てが八代城とも呼ばれました。
その後に加藤家が改易されると、
小倉藩より細川家が54万石で入封。
八代城も支城として残され、
隠居した細川忠興が入っています。
「江戸時代の八代城復元模型」。
現地の案内板より。
八代城は本丸部分の石垣及び内堀が残され、
その他の殆どは市街地となっています。
「本丸大手口跡」。
東側の八代市役所からの入口が本丸大手。
欄干橋と呼ばれた太鼓橋が架けられ、
奥に大規模な枡形虎口が設けられました。
「八代宮」。
本丸内に鎮座する八代宮。
後醍醐天皇の皇子懐良親王の墓が、
この八代市街東側の三室山にあることから、
これを祀る神社が明治17年に創建。
社域は本丸御殿があった場所です。
南側に参道の橋が架けられていますが、
往時はここに橋はありませんでした。
「天守台」。
八代城の天守は連結式だったようで、
4層5階の大天守と2層3階の小天守が、
渡櫓で連結されていたようです。
城の規模に比べて荘厳な天守だったようで、
八代に過ぎたるものが二つある
天守の屋根に乞食の松と、
自らの居城を細川忠興が詠んでいます。
落雷によって焼失した後は放棄されており、
一度も再建される事はなかったとのこと。
北側から本丸跡を出る。
「埋門跡」。
本丸搦手口で廊下橋が架けられていました。
こちらも桝形虎口となっています。
「天守台(外側)」。
内堀の外側から見た天守台。
「松井神社」。
北の丸跡に鎮座する神社で、
細川家の筆頭家老松井家の初代松井康之と、
2代松井興長を祀っています。
松井家は興長の代から城代を務めました。
「臥竜梅」。
北の丸は忠興の隠居所であったようで、
ここに数奇屋を建てて庭園を築きました。
この梅は樹齢300余年の名木で、
幹が地に臥せた龍のようだった為、
臥竜梅と呼ばれたようです。
梅は寒さが厳しい時期に咲く事から、
八代に百花の魁のような人材が出る様に、
忠興自身が植えたとのこと。
境内には大名庭園の痕跡が残っています。
松井神社から松浜軒へ。
「松浜軒」。
元禄元年(1688)に建てられた御茶屋で、
4代松井直之が母の為に建てたもの。
美しい庭園は四季折々に花が咲き、
5月下旬頃より咲く肥後花菖蒲が有名。
当時は八代湾が見渡せる松の浜辺が近く、
名称はそのことに由来します。
訪問時は早朝であった事から、
まだ開園していませんでした。
忠興は四男細川立孝を本丸御殿に住まわせ、
自分の隠居料を相続させるつもりでしたが、
立孝は病死して忠興も死去してしまいます。
2代藩主細川光尚は城主不在の八代城を、
筆頭家老松井興長に与え八代3万石に移封。
※立孝の子細川行孝には宇土3万石を与え、
支藩の宇土藩が立藩しています。
以後は松井家が八代城を居城としており、
10代続いて明治維新を迎えました。
明治2年に最後の城主松井盈之が、
明治政府に領地を返還しており、
盈之は熊本藩大参事に任命されています。
これにより八代城は廃城。
建物は取り壊されて堀が埋められました。
明治10年の西南戦争では、
松井家旧臣370名が八代正義隊を結成。
政府軍を八代に迎え入れており、
西郷軍の辺見十郎太、別府晋介らを撃退し、
城下に入れさせる事はなかったようです。
■関連記事■
・熊本県八代市 春光寺/松井家墓所(旧廟)
八代城主松井家の歴代墓所。
・熊本県宇土市 宇土陣屋跡
宇土藩細川家の陣屋跡。
・熊本県人吉市 人吉城跡①
人吉藩への防御の目的もあったという。