佐賀県嬉野市 嬉野湯宿跡

嬉野湯宿長崎街道の宿場町で、
温泉場としても栄えていました。
その歴史は古く神功皇后西征にまで遡り、
西征の帰途に皇后が傷ついた白鶴を見付け、
その鶴が河原に舞い降りて湯浴みをすると、
再び元気になって去っていったのを見て、
皇后は「あな、うれしや」と感歎。
これ嬉野の地名の語源となったようで、
以後は万人を治す名湯として栄えました。


嬉野温泉周辺。緑の線が街道筋で、
青でぼかした辺りが嬉野宿跡。

西構口より散策。

長崎街道嬉野湯宿 西構口跡」。
老舗旅館大正屋の前にある西構口跡
遺構はなく碑と説明板が建てられています。


嬉野湯宿跡」。
街道筋は商店街となっています。
温泉旅館は殆ど街道筋にはないようで、
足湯が点在していなければ、
普通の商店街と殆ど変わりません。

宿場の中央付近まで歩くと、
シーボルトの足湯がありましたが、
足湯を使用している観光客が多く、
写真を撮るのが憚られました。
そこを右折してシーボルトの湯へ。

シーボルトの湯」。
旧藩営浴場は現在も公衆浴場として現役。
蓮池藩がここに浴場を設置しており、
身分に応じて湯を区別していたという。
また大名や長崎奉行用の施設として、
上使屋という御茶屋も置かれています。
但し本陣には少々手狭だったようで、
宿泊する際は瑞光寺が本陣となったという。
この裏手に上使屋跡碑があったようですが、
気が付きませんでした。
シーボルトは嬉野温泉に立ち寄った際、
同行の薬剤師ビュルガーが成分を分析し、
嬉野温泉の泉質を記録しています。
そんな逸話があるのなら、
ビュルガーの湯の方が良い気もしますが、
一般人は誰??ってなるでしょうから、
シーボルトの湯が妥当な線でしょうね。

再び街道筋へ。

宿場内はそれ程見るべきものもなく、
普通の商店街として続きます。
大正時代大火があったようで、
その際に古い建物は焼失したのでしょう。

更に進んで東構口跡

長崎街道嬉野湯宿 東構口跡」。
嬉野湯宿の東端。
こちらも遺構はなく碑と説明板のみ。


東構口より先も道は続きますが、
道は構口より和田屋別館前の細道に。
車道は温泉街特有の大人のお店が並びます。


番号石」。
嬉野温泉周辺に点在する番号石
天明元年(1781)佐賀藩と蓮池藩の間で、
嬉野地区での境界紛争が起こり、
佐賀藩に有利な条件で決着しています。
そして新しい境界線上に番号石が置かれ、
その境が明らかにされたとのこと。

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 嬉野湯宿は蓮池藩領でした。