佐賀県武雄市 塚崎宿跡

塚崎宿長崎街道の宿場町で、
現在の武雄温泉のある辺りにありました。
開湯は神功皇后西征凱旋の際とされ、
皇后が太刀の柄で岩を一突きしたところ、
湯が湧き出たという伝説があり、
この事から柄崎、塚崎と呼ばれたという。
武雄もこの地の古い地名でしたが、
塚崎より狭い地域さしていた為、
江戸時代は塚崎が一般的であったようで、
後に鉄道の駅名が武雄駅とされた為、
現在は武雄が一般的な地名になりました。

古くから湯治場として栄え、
戦国時代の将兵も利用したようで、
朝鮮出兵で負傷した兵達も、
この温泉で傷を癒したとされ、
伊達政宗宮本武蔵も利用しています。

江戸時代初期の長崎街道は塚崎を通らず、
小田宿から後の北方の手前で南下し、
鳴瀬塩田を経て嬉野宿に入りましたが、
塩田川の相次ぐ氾濫で通行不可となった為、
塚崎を経由する新たな道が設置され、
これに伴い塚崎は宿場町になりました。


武雄温泉周辺。緑の線が街道筋で、
青でぼかした辺りが塚崎宿跡。

今回の旅行では武雄温泉に宿泊。
ご飯と温泉を満喫した後で、
ちょっと夜のお散歩をしようかと、
家族で外に出てみます。

武雄温泉楼門」。
武雄温泉のシンボルである朱塗りの楼門。
竜宮城を連想させる天平式楼門は、
東京駅を設計した辰野金吾の設計です。
その東京駅南北ドームの天井には、
8つの干支のレリーフがあるようですが、
この楼門には残り4つの干支の絵があって、
両方を合わせて12支となるという。


武雄温泉新館」。
本陣御殿湯が置かれていた場所で、
大正時代公衆浴場として建てられたもの。
楼門と同じく辰野金吾の設計で、
大浴場の他に大正天皇の浴室もある模様。
現在は資料館となっており、
温泉は隣の棟の蓬莱湯で入れます。
御殿湯も殿様湯として現役で入浴も可能。


湯元荘東洋館」。
現在の湯元荘東洋館脇本陣平戸屋の跡。
慶長期に旅籠諸国屋として始まり、
塚崎道が整備されて宿場が開かれると、
脇本陣に指定されました。
宮本武蔵が宿泊した記録もあるようです。


ホテル春慶屋」。
脇本陣の向いは代官所だったようで、
現在はホテル春慶屋となっています。
今回の宿でもあります。

嫁さんとゆきちゃんは疲れたと離脱。
もう少し宿場内を散策する為、
娘のみよちゃんと2人で再度出発!

札の辻」。
高札場が建てられていた札之辻跡
先程迄は街道筋から外れており、
ここから合流しています。


札の辻から東側。
街灯はついていますが、
開いているお店はありません。

札の辻に戻って南東方向へ。
次ぎの三叉路を右折して南西に進むと、
小さな鍵型道路があります。
それを越えると牛の鼻町


中村涼庵旧宅」。
中村凉庵は武雄鍋島家家臣の子に生まれ、
医師を志して京都長崎で学び、
武雄で開業していましたが、
領主鍋島茂義の勧めで再度長崎に遊学。
シーボルトの弟子楢林栄建に師事しました。
武雄に戻った凉庵は妹の子供や、
幼き領主鍋島茂昌種痘を施しており、
種痘の普及に努めています。
後にボードウィンに学んで研究を重ね、
維新後は好生館の副院長にも就任しました。
ここはその凉庵の旧宅跡。

趣向を変えて夜の取材をしてみましたが、
やっぱり夜は視界が狭いので、
なかなか史跡訪問には向きません。
娘とのお散歩に終始した感が否めませんが、
ごくたまにはこういうのもアリかな?

■長崎街道の宿場町

■関連記事■
佐賀県武雄市 北方宿跡
 長崎街道の15番目の宿場町。
佐賀県嬉野市 嬉野湯宿跡
 長崎街道の17番目の宿場町。
長崎県東彼杵郡 彼杵宿跡
 長崎街道の18番目の宿場町。