長崎県東彼杵郡 彼杵宿跡

彼杵宿長崎街道の宿場町で、
嬉野宿との間には難所俵坂峠が控えており、
佐賀藩領と大村藩領の藩境。
平戸往還との追分でもあった他、
彼杵湊からの海路も整っていた事から、
大変に栄えた宿場町でした。


JR彼杵駅周辺。緑の線が長崎街道で、
青い線が平戸往還。
青でぼかした辺りが彼杵宿跡。

長崎側から散策します。

下川橋」。
道の駅彼杵の荘で車を駐車し、
南側の街道筋を西へ向かって進むと、
彼杵川に架かる下川橋に至ります。
この橋を渡ると彼杵宿。
川を覗くと円形の石積みが点在しており、
旧橋の基礎なのかなと思っていましたが、
調べるとうなぎ塚という伝統漁とのこと。


本町万部塔」。
下川橋を渡ったところにある万部塔
明暦3年(1653)に大村藩領内において、
郡崩れ(隠れキリシタン摘発事件)が発生し、
仏教徒の証として長崎街道沿いや、
集落内に建てられた宝塔のひとつ。

ここから彼杵宿に入りますが、
少し寄り道して彼杵川を下ります。

日本二十六聖人乗船場跡」。
彼杵川河口付近にある記念碑。
豊臣秀吉が発布した禁教令により、
フランシスコ会会員と教徒24名を捕縛し、
処刑の為に長崎へ連行されました。
道中で2人の教徒が増えて6人となり、
山陽道から長崎道を進んで彼杵に到着。
この辺りから三艘の舟に乗せられて、
海路で時津に向かいました。
時津から長崎に入った殉教者一行は、
西坂の刑場磔刑に処されて殉教。
後に彼らは日本二十六聖人と呼ばれます。

彼杵川沿いを戻って街道筋へ。

彼杵宿跡」。
街道筋は当時の状態を保つものの、
当時の建屋は残っていない模様。


思案橋跡」。
長崎街道と平戸往還の追分。
コンクリートの蓋で隠されていますが、
この下に白井川が流れており、
当時は思案橋が架けられていたという。
その橋を渡れば平戸往還。
平戸が長崎かどちらに行こうか思案した為、
この名前が付けられたのでしょうか?


俵町通り」。
四辻の北側が長崎街道の嬉野方向。
この筋の南側に脇本陣があったようです。
※街道脇に標柱があったようですが、
 気が付きませんでした。

本陣は現在の彼杵神社の境内あたりで、
詳しくはわかりませんが、
大村藩営の御茶屋だった模様。

四辻に戻って海側へ。

元禄船着場跡」。
元禄7年(1694)に開港した彼杵湊の船着場。
長崎街道を通る陸路ルートの他、
ここから時津湊に向かう海路があり、
多くの物産の流通が行われました。
また五島沖で捕れたも彼杵湊に運ばれ、
九州各地に運ばれたようです。

吉田松陰九州遊学の際、
長崎から平戸へ向かっています。
松原宿から彼杵宿まで海路を使い、
そこから平戸往還に入っていますが、
たぶんこの船着場で上陸したのでしょう。

■長崎街道の宿場町
■平戸往還の宿場町

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