東京都渋谷区 祥雲寺/奥殿藩松平家墓所

記事タイトルに悩みましたが、
とりあえず奥殿藩松平家墓所としました。
大給松平家は三河国加茂郡大給を領し、
その系譜から西尾藩府内藩岩村藩
そして奥殿藩と四つの大名家を輩出。
この祥雲寺にある大給松平家の墓は、
奥殿藩(後に田野口藩→龍岡藩)のもので、
維新後に大給家を名乗りました。


枢密院顧問官 正二位勲一等
 伯爵 大給恒墓
」。
奥殿藩8代及び田野口藩初代松平乗謨の墓。
維新後は松平姓を棄てて大給恒を名乗り、
賞勲局総裁枢密顧問官等を務めています。
奥殿藩7代松平乗利の長男に生まれ、
幼少時より聡明であったという。
父の隠居により家督を相続。
日光祭礼奉行大番頭若年寄を務め、
藩庁を奥殿から飛地の田野口に移し、
星形要塞の龍岡城を建設しました。
横浜鎖港問題で政事総裁松平直克と対立し、
若年寄を罷免されていますが、
後に陸軍奉行として復帰すると、
慶応2年には老中に栄進しています。
陸軍総裁にも任じられていますが、
慶応4年に老中と共に辞任し、
大給姓を名乗って新政府に恭順。
北越戦争新政府軍として出兵し、
藩名を竜岡藩と改称しています。


蓬蝋院前隅州太守観誉玄圃呑海大居士」。
奥殿藩4代藩主松平乗友の墓。
3代松平乗穏の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
浅間山の噴火で領内が大被害を受け、
直後の天明飢饉でも被害を出しますが、
救済に努めて餓死者を出しませんでした。
しかし幕政参加で財政は悪化した為、
倹約令を数度発しており、
隠居後も実権を握り続けています。

藩主の墓はこの二つだけの模様。
他の藩主墓所は赤坂浄土寺墓地と、
岡崎市奥殿町にあります。

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