東海寺には宮川藩堀田家の墓所もあります。
「東海寺」。
京都の大徳寺の住職沢庵宗彭は、
紫衣事件で出羽国に流罪となって、
上山藩に預けられていました。
寛永9年(1632)に大御所徳川秀忠が死去し、
これによって大赦令が発せられ、
紫衣事件の関係者は放免。
沢庵も江戸に呼び寄せられて、
寛永11年(1634)まで留まった後、
大徳寺に戻りました。
将軍徳川家光は上洛した際に沢庵に会い、
深く沢庵に帰依したとされ、
幕命により江戸に召喚されるに至り、
家光は東海寺を建立して沢庵を住まわせ、
晩年を江戸に過ごす事となります。
家光が東海寺を訪れた際に、
「東海寺ト言ヘト海近シ」
と問うと即座に、
「大君ト言ヘト将軍ト称スルカコトシ」
と返したという逸話は有名。
宮川藩堀田家の墓所は青木家の墓の隣。
「臨川院殿前拾遺賀州太守
心隠宗卜大居士(右)」、
「正綂院殿苹嶽宗榮大姉(右中)」、
「堀田家墓(左中)」、
「本光院殿瑞嶽宗峻大居士(左)」。
右から堀田宗家初代当主堀田正盛の墓、
本多忠勝の娘で正盛の正室阿栗姫の墓、
堀田宗家の累代墓、
宮川藩9代(宗家11代)堀田正養の墓。
宮川藩堀田家は堀田家の宗家ですが、
支流の佐倉藩堀田家は10万石ながら、
宗家の宮川藩堀田家は僅か1万3000石です。
正盛は12万石を所領していましたが、
跡を継いだ堀田正信が改易されて、
後に3代堀田正休が再興。
吉井藩1万石として立藩しており、
やがて宮川に移封されて宮川藩となり、
3代堀田正陳が3000石を加増されて、
その後9代続いて廃藩置県を迎えます。
江戸期の堀田宗家の墓所は、
浅草の金蔵寺にあったようですが、
昭和4年に改葬されたという。
■関連記事■
・滋賀県長浜市 宮川陣屋跡
宮川藩堀田家の陣屋跡。
・千葉県佐倉市 甚大寺/佐倉藩堀田家墓所
支流佐倉藩堀田家の墓所。
・千葉県佐倉市 佐倉城跡①
佐倉藩堀田家の居城跡。