千葉県佐倉市 佐倉城跡①

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初の千葉県の記事です。
佐倉は江戸の東に位置する要衝の地で、
重きを成す譜代大名が治めていました。
しかしながら藩主家の出入りが激しく、
江戸期を通じて12回も変わっています。
3代続くこと無く入れ替わりましたが、
堀田正亮老中に就任したことにより、
1万石の加増と共に佐倉へ転封して以後、
堀田家が定着して6代続きました。

京成佐倉駅南口より西へ進み佐倉城跡へ。

田町門跡」。
城には主要な城門が9つあったようですが、
他の城門が二階櫓門だったのに対し、
唯一田町門だけが一階門だったようです。


水堀」。
田町門跡の左右には水堀が現存しています。
この水堀は佐倉城を一周していましたが、
現在はこの田町門跡付近の他に、
反対側の2つの出丸の間のみ残っています。

田町門跡から愛宕坂と呼ばれた坂を登る。

国立歴史民俗博物館(椎木曲輪跡)」。
愛宕坂を登った先は椎木曲輪と呼ばれ、
侍屋敷が集まっていた場所。
佐倉城は廃藩置県後の廃城後、
歩兵第57連隊(佐倉連隊)駐屯地となり、
連隊の兵舎が建てられていたようです。


椎木門馬出の空堀」。
椎木門と呼ばれる城門前の馬出空堀
駐屯地時代に一旦埋め立てられたものを、
掘り返して復元させたものとのこと。

二ノ丸跡へ。

二ノ丸御殿跡」。
佐倉藩の歴代藩主(堀田家以前も含む)は、
二ノ丸御殿に住んでいたという。
本丸御殿徳川家康が休憩に来て以来、
恐れ多いと年始五節句以外は使われず、
将軍御成時の宿所としなったようです。


佐倉城の敷石」。
博物館の研究棟を建設する為の発掘調査で、
佐倉連隊の兵舎の基礎が発見され、
その基礎が佐倉城の敷石だったという。
廃城の際に城内の建物が取り壊され、
兵舎に転用されたものとのこと。


空堀」。
あちこちに空堀がめぐらされています。
良好な保存状態という事らしいですが、
石垣の城ばかり見慣れていると、
ただの崖にしか見えない。
先程の馬出の様に整備されてたら、
素人でもよくわかるのですが・・。


正岡子規句碑」。
正岡子規の詠んだ佐倉城の句が刻まれた碑。
総武鉄道本所駅佐倉駅間が開通した際、
正岡子規は初乗りして佐倉を訪れて、
佐倉の町を散策して俳句を詠んでいます。
常磐木や冬されまさる城の跡」。
この句は田町門跡付近の水堀あたりで、
詠まれたものという。

二ノ丸跡から本丸跡へ。

一の門跡」。
本丸への入口跡。
本丸から大手門まで本丸より近い順に、
一の門ニの門三の門となっています。


本丸御殿跡」。
本丸跡の敷地はかなりの広さがあります。
前記したようにここにあった本丸御殿は、
将軍宿所として保存されていました。


天守台」。
天守は外観的に見栄えのするものですが、
利用価値はそれほどなかったりします。
大体は倉庫のような使われ方だったようで、
この佐倉城の天守(三重櫓)も、
武器庫として使われていました。

装飾された武具も保管されていたようで、
その為か2度も泥棒に入られたそうです。
その2度目には泥棒の提灯の火種で出火。
天守は焼失してしまったという。
以後は再建される事無く廃藩を迎えました。


下総国 佐倉城天守跡」碑。
天守台にある碑。比較的新しいものです。

つづく。
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