千葉県佐倉市 佐倉城跡②

つづき。
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本丸跡を出て、東側の三ノ丸跡方向へ。

二の門跡」。
二ノ丸の入場門跡。
二階櫓門が建てられていたようです。


堀田正睦公像」。
堀田家佐倉藩5代藩主堀田正睦の銅像。
老中首座阿部正弘亡き後の幕政を牽引し、
米国との通商条約締結案をまとめ、
詔勅を得る為に自ら上洛しますが、
攘夷派の反対で孝明天皇に却下されます。
上洛中、井伊直弼大老に就任すると、
将軍継嗣問題一橋派であった為に罷免。
桜田門外の変後に老中に復帰しますが、
井伊との仲を疑われて再び罷免され、
佐倉城で蟄居処分となり、元治元年に死去。
開明的な人物であったようですが、
政敵に翻弄されたフシが強く、
能力を発揮できぬままであったようです。


ダウンゼント・ハリス像」。
米国総領事ダウンゼント・ハリスの銅像。
安部正睦の銅像の隣に建てられています。
日米修好通商条約締結150周年を記念して、
佐倉ライオンズクラブにより建立されたものです。
現存するハリスの写真に比べて、
すいぶんとスマートなハリスですね。


松山御殿跡」。
蟄居を命じられた正睦は、
三ノ丸に松山御殿と呼ばれる御殿を建設し、
晩年はそこで居住したようです。
訪問時は令和元年台風15号の被害で、
木々が根っこから倒されており、
台風の凄まじさを思い知らされます。

三の門跡を過ぎて大手門跡へ。

佐倉城大手門跡」碑。
公園を出て直線的な道を進むと見えてくる跡碑。
碑のみで遺構は全くありません。


藩校成徳書院跡」碑。
佐倉市民体育館の横にある碑。
佐倉藩の藩校成徳書院があった場所。
佐倉といえば佐倉順天堂のイメージがありますが、
佐倉順天堂はあくまで医院であり私塾でした。

佐倉藩は洋学を取り入れた子弟教育を行っており、
歴代藩主は学問を積極的に奨励しました。
飛地駐屯地にも分校を設置するなど、
教育の重要性を認識していたことが伺えます。

一旦城跡から出て出丸跡へ。
本来は二ノ丸跡から下りて行けたようなのですが、
台風の影響で通行できない状態となっており、
仕方なく遠回りしなくてはなりませんでした。

城南堤」。
城の南西に直線的に伸びる土塀
雄大に伸びているこの土塀にはが植えられており、
季節には素晴らしい景観を見せると思われます。


出丸跡」。
本丸下に位置する水堀にはみ出した郭。
防御上重要な役割を持っているようで、
本丸の西側を守る為の重要な拠点でした。


出丸跡の内側。
良好に保存されているようで、
当時のままの状態のようです。

幕末の佐倉藩といえば、
幕政においての藩主堀田正睦の活躍は特筆ですが、
藩政においても多くの改革を進めました。
文武を奨励して学制改革を実施。
従来の藩校温故堂の制度を見直し、
江戸と佐倉に成徳書院を設置して、
儒学を基礎とする礼節書学数学武芸の他、
蘭学も取り入れています。
また、佐藤泰然を招いて蘭方医学を採用し、
医学所を設置。
佐倉は幕末蘭学の一大中心地となりました。

正睦隠居後に藩主となった6代藩主堀田正倫は、
鳥羽伏見の戦い旧幕府軍が敗れた後、
徳川慶喜の助命と徳川宗家の存続を嘆願しますが、
新政府はこれを拒絶して京都に留め置かれます。
藩主不在の佐倉藩は、家老平野縫殿が適切に対処し、
新政府が命じる大多喜藩への出兵に応じ、
大多喜城の接収に当たりました。
その後も東北に藩兵1153名を派遣しています。

【佐倉藩】
藩庁:佐倉城
藩主家:正俊流堀田家
分類:11万石、譜代大名

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