つづき。
①/②
本丸跡を出て東側の三ノ丸跡方向へ。
「二の門跡」。
二ノ丸の入場門跡。
二階櫓門が建てられていたようです。
「堀田正睦公像」。
堀田家佐倉藩5代藩主堀田正睦の銅像。
老中首座阿部正弘亡き後の幕政を牽引し、
米国との通商条約締結案をまとめ、
詔勅を得る為に自ら上洛しますが、
攘夷派の反対で孝明天皇に却下されます。
上洛中、井伊直弼が大老に就任すると、
将軍継嗣問題で一橋派であった為に罷免。
桜田門外の変後に老中に復帰しますが、
井伊との仲を疑われて再び罷免され、
佐倉城で蟄居処分となり、元治元年に死去。
開明的な人物であったようですが、
政敵に翻弄されたフシが強く、
能力を発揮できぬままであったようです。
「ダウンゼント・ハリス像」。
米国総領事ダウンゼント・ハリスの銅像。
安部正睦の銅像の隣に建てられています。
日米修好通商条約締結150周年を記念し、
佐倉ライオンズクラブが建立されたもの。
現存するハリスの写真に比べて、
すいぶんとスマートですね。
「松山御殿跡」。
蟄居を命じられた正睦は、
三ノ丸に松山御殿と呼ばれる御殿を建設し、
晩年はそこで居住したようです。
訪問時は令和元年台風15号の被害で、
木々が根っこから倒されており、
台風の凄まじさを思い知らされます。
三の門跡を過ぎて大手門跡へ。
「佐倉城大手門跡」碑。
直線的な道を進むと見えてくる跡碑。
碑のみで遺構は全くありません。
「藩校成徳書院跡」碑。
佐倉市民体育館の横にある碑。
佐倉藩の藩校成徳書院があった場所。
佐倉といえば佐倉順天堂のイメージですが、
佐倉順天堂はあくまで医院であり私塾でした。
佐倉藩は洋学を子弟教育に取り入れており、
歴代藩主は学問を積極的に奨励しました。
飛地や駐屯地にも分校を設置するなど、
教育の重要性を認識していたのが伺えます。
一旦城跡から出て出丸跡へ。
本来は二ノ丸跡から行けたようなのですが、
通行できない状態となっており、
仕方なく遠回りしました。
「城南堤」。
城の南西に直線的に伸びる土塀。
雄大に伸びる土塀には桜が植えられており、
季節には景観を見せると思われます。
「出丸跡」。
本丸下に位置する水堀にはみ出した郭。
防御上重要な役割を持っているようで、
本丸の西側を守る為の重要な拠点でした。
出丸跡の内側。
良好に保存されているようで、
当時のままの状態のようです。
幕末の佐倉藩といえば、
幕政での藩主堀田正睦の活躍は特筆ですが、
藩政においても多くの改革を進めました。
文武を奨励して学制改革を実施。
従来の藩校温故堂の制度を見直し、
江戸と佐倉に成徳書院を設置して、
儒学を基礎に礼節、書学、数学、武芸の他、
そして蘭学も取り入れています。
また佐藤泰然を招いて蘭方医学を採用し、
佐倉領内に医学所を設置。
幕末蘭学の一大中心地となりました。
6代藩主堀田正倫は、
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れた後、
徳川慶喜助命と徳川宗家存続を嘆願。
新政府はこれを拒絶し、
正倫は京都に留め置かれます。
これに家老平野縫殿が適切に対処し、
新政府が命じる大多喜藩への出兵に応じ、
大多喜城の接収に当たりました。
その後も藩兵1153名を派遣しています。
【佐倉藩】
藩庁:佐倉城
藩主家:正俊流堀田家
分類:11万石、譜代大名
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佐倉藩堀田家の歴代墓所。
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宮川藩堀田宗家の陣屋跡。
・千葉県佐倉市 佐倉順天堂記念館
蘭医学の最先端であった佐倉順天堂跡。