浦上街道の終点である時津湊は大村藩領で、
同藩の港である彼杵湊と連絡しており、
多くの物産品や人が運ばれました。
時津港周辺。緑の線が街道筋で、
小さな赤丸は茶屋跡と、
日本二十六聖人上陸の地。
「時津湊」。
埋立てで当時とは海岸線も変化。
それでも大村湾は昔と変わらず、
穏やかな水面を広げています。
頼山陽はこの海を琴湖を名付けました。
「日本二十六聖人上陸の地」碑。
豊臣秀吉の命で26人のキリシタンは、
処刑の為に長崎を目指し、
慶長元年12月18日深夜(1597/2/4)に、
彼杵湊から3隻の舟で時津湊に到着。
霜が降る寒い夜だったという。
現在は埋め立てられていますので、
この場所は当時は海の上。
実際に26人が上陸したのは、
町役場や警察署の北側辺りとのこと。
彼らは翌12月19日早朝に、
浦上街道を進んで西坂へ向かっています。
吉田松陰は平戸での兵学修行を終え、
長崎に戻る際は平戸湾から飛船に乗り、
大村湾を縦断して時津湊に入りました。
平戸より毎月運行する定期船だったようです。
■長崎街道の宿場町
■関連記事■
・長崎県長崎市 日本二十六聖人殉教地
26人が殉教した場所。
・長崎県長崎市 浦上街道起点
浦上街道の起点。
・長崎県東彼杵郡 彼杵宿跡
時津湊と連絡する長崎街道の宿場町。