フィリップ フランツ フォン シーボルトは、
ドイツ人の医師で植物学者。
オランダの軍医となり東インドに派遣され、
日本研究を希望して出島の商館医となると、
そこで優れた技術を認められて、
特別に出島の外での診察を許されます。
また鳴滝に家を買って鳴滝塾を開き、
そこで西洋学を教授すると共に、
近隣の病人の診療も行いました。
「シーボルト宅跡」。
鳴滝塾のあった場所。
現在は更地となっており、
井戸の跡や石垣が遺構として残ります。
特別に出島から出る事を許されていましたが、
宿泊は許されておらず通っていたという。
出島から2.5km程なので通える距離ですね。
安政6年に再来日した際はここを住居とし、
文久2年の帰国まで暮らしました。
「シーボルト先生之宅址」。
敷地内にある跡碑。
鳴滝塾は高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、
戸塚静海、小関三英、伊藤圭介など、
優れた蘭学者を輩出しています。
「DR VON SIEBOLD」。
宅跡奥に建てられたシーボルトの胸像。
季節ではありませんが、
周りに植えられているのはアジサイ。
シーボルトは丸山町の遊女楠本瀧を懇意とし、
瀧はシーボルトの間にイネを産んでいます。
シーボルトは瀧をオタクサと呼んでおり、
日本の美しいアジサイに、
ヒドランゲア・オタクサと名付けました。
文政11年(1828)に一時帰国しますが、
船が難破して積荷の多くが海中に流出。
この中にシーボルトの荷物があり、
禁制の日本地図等が発見された為、
国外追放処分となっています。
その後約30年の歳月の後に再来日。
オランダ貿易会社の顧問を務め、
かつて塾を開いたこの場所に住み、
博物収集や自然観察を行いました。
文久元年には幕府外交顧問となっており、
江戸や横浜にも滞在していますが、
程なく解任されて長崎に戻り、
翌年に帰国しています。
1866年(慶応元年)にミュンヘンで死去。
「シーボルト記念館」。
宅跡の隣にあるシーボルトの記念館。
平成元年に長崎市が設置したもので、
オランダのシーボルト旧宅等をイメージし、
資料や遺品等を展示しています。
入館料は100円。
シーボルト宅跡より150m南へ下ると、
鳴滝の地名の由来となった滝があります。
「鳴滝」。
長崎奉行牛込忠左衛門が京都の鳴滝に因み、
この滝を鳴滝と名付けたとされ、
周辺の地名となりました。
確かに滝の音が心地よく聞こえます。
※鳴滝石という巨石があったようですが、
見つけられませんでした。
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・長崎県長崎市 出島
ここから鳴滝塾に通っていました。