晧臺寺は寺町通りにある曹洞宗のお寺で、
長崎三大寺に指定される大寺院。
「皓臺寺」。
訪問時は開創400年記念事業として、
諸堂の再建工事が行われており、
残念ながら見学エリアは限られていました。
長崎最古という仁王門も見えません。
寺については完成時に再訪して、
再度記事にしたと思います。
皓臺寺墓地には町年寄や唐通事の墓所、
在任中に死去した長崎奉行の墓など、
多くの墓が風頭山の山麓に立ち並びますが、
今回は楠本イネ、二宮敬作の墓所を訪問。
長崎には何度も来る予定がありますので、
墓地もゆっくりと巡ろうと思っています。
「幣振坂」。
皓台寺と大音寺の間にある山頂へ続く坂道。
諏訪神社大鳥居の石材を切り出す際、
石が大き過ぎて人々が思いあぐねていると、
宰領が石の上に乗り御幣を振って励まし、
どうにか石を麓へ下ろす事が出来たという。
これが坂名の由来となっているようです。
ヘイフリは屁ふりに繋がる為、
※九州の方言:屁こき、屁ひりの意。
誰かが屁をしたと思っている人も多いとか。
「シーボルトゆかりの人たちの顕彰碑」。
しばらく登った左側に設置された顕彰碑。
文字どおりシーボルトの顕彰ではなく、
シーボルトの愛人楠本瀧とその子楠本イネ、
門弟二宮敬作らを称えたもの。
更に上へ登る。
「楠本家墓所」。
楠本家は銀座町の商家であったようですが、
瀧の父楠本左平の頃に没落したという。
「法巖了性信士
法室貞性信女
榮材昌華信女
釋 是念信士
白巖妙瀧信女 各霊(中央)」。
楠本家の合葬墓。
白巖妙瀧信女が瀧の法名のようで、
釋 是念信士は瀧の再婚相手俵屋時治郎。
他は瀧の父母、姉と思われます。
左平は手広く商売を手掛けたようですが、
次第にうまくいかなくなって、
長女ツネや四女の瀧を売るに至ったという。
瀧は15歳で丸山引田屋の遊女其扇となり、
やがて出島に出入りするようになって、
シーボルトに見初められました。
2人の間にイネが生まれる事になりますが、
後にシーボルトは国外追放となっており、
瀧は後に俵屋時治郎の許に嫁ぎ、
明治2年に死去しています。
「楠本家之墓」。
イネが眠る楠本家の合葬墓。
イネは父と同じく医者の道を志し、
シーボルト門下の二宮敬作に養育された後、
同じく門下の石井宗謙に産科を学びました。
しかし宗謙に暴行されて娘を生む事となり、
宗謙を激しく嫌ったという。
その後村田蔵六(大村益次郎)に蘭語を学び、
ポンぺやボードウィンに産科、病理を学び、
後に来日した異母弟の支援で産科を開業。
宮内省御用掛にもなっていますが、
医術開業試験で女性の受験資格が無い為、
長崎に戻って医院を開いています。
その後は娘夫婦と同居する為に再び上京し、
余生を過ごして77歳で死去しました。
大村が刺客に襲われて瀕死となった際、
イネは娘タカと看護をしていたようですが、
病状は好転せずに壊死した左足を切断。
それでも時既に遅く大村は死去しています。
イネと大村の恋愛が語られたりしてますが、
これは司馬遼の花神の影響によるもので、
そのような事実の痕跡はありません。
「青雲院徳光如山居士
空洋院節心守貞大姉(左)」、
「二宮敬作先生之墓(右)」。
二宮敬作と妻イワの墓。
二宮は蘭医を志して長崎へ留学し、
通詞吉雄権之助や蘭学者美馬順三に師事。
シーボルトの鳴滝塾に入門していますが、
シーボルト事件に連座して入獄しました。
出獄後は故郷の卯之町で開業しており、
イネも卯之町で医学を学んでいます。
後に長崎に戻って開業しますが、
文久2年に死去してしまい、
イネによって皓臺寺墓地に葬られており。
後に楠本家墓所に移されました。
再来日したシーボルトと再会した際、
立派に産医となっていたイネを見て、
二宮の義侠に感涙したという。
■関連記事■
・長崎県長崎市 鳴滝塾跡
シーボルトか主宰した鳴滝塾跡。
・愛媛県西予市 卯之町①
二宮敬作関連史跡と墓所。
・大阪府大阪市 龍海寺/緒方洪庵墓所
大村の切断した左足が埋葬されています。
・山口県山口市 大村益次郎墓所(再訪)
大村益次郎の墓所。