下関市吉田 東行庵/壬戌丸水夫の墓

奇兵隊顕彰墓地にある壬戌丸水夫の墓碑。
文久3年5月10日。
長州藩は米商船ペンブローク号を砲撃し、
これを周防灘へ逃走させています。
この報告を聞いた米公使R.H.プリュインは、
軍艦ワイオミングマクドガル艦長と共に、
幕府に対して抗議しましたが、
その対応に不満なマクドガルは報復を主張。
プリュインは報復に難色をしめしますが、
最終的には同意して報復が決定され、
ワイオミングは横浜を出航し、
文久3年6月1日に関門海峡に至ります。
ワイオミングは碇泊する長州艦を発見すると、
壬戌丸を標的として砲撃。
驚いた壬戌丸は逃走を開始しますが、
ワイオミングはこれを追い、
弾丸数十発を命中させますが、
その際に蒸気機関に命中してしまい、
傍らにいた水夫らが熱湯を浴びました。
全身の皮膚が剥脱して肉はただれ、
悲惨な状態であったようで、
これを聞いた藩政府は2日の夜に、
彼らを士分とする事を通達。
この報を生前に聞く事が出来たようですが、
翌3日の昼迄に全員が死亡しています。


山本弥八・堀虎蔵・斎藤亀蔵・
 藤吉・粂八の墓
」。
※墓碑銘が風化で読めない個所が多く、
 殆ど〇〇になるので立看板に准じます。

武士となった事を聞いて死んだ彼らは、
喜んで逝ったのでしょうか?

この日壬戍丸には毛利定広が乗る予定で、
船に派手な装飾が施されていたとされ、
この為に狙われたと思われます。

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