佐賀県佐賀市 大雲寺/村田家墓所

大雲寺龍泰寺末寺の曹洞宗寺院。
宝永6年(1709)3代当主村田政辰が、
※当時は村田政種と称していた。
龍造寺政家の菩薩を弔う為に創建し、
龍泰寺14世治節和尚を迎え開山。
以後は村田家当主の菩提寺となりました。


本堂」。
本堂の建立時期はわかりませんが、
新しいもののようです。


村田家墓所」。
本堂裏手にある村田家の墓所。
当主の他に一族の墓がありますが、
墓碑銘が読めないものもあました。
3代、6代、9代は特定出来ましたが、
それ以外は見つからず。
明治以降の当主の墓はありましたが、
歴代全員は無さそうです。


流水院殿露山性玉大居士」。
3代当主村田政辰の墓。
白石鍋島家初代鍋島直弘の子で、
2代氏久の養嫡子となって家督を相続。
自領に大雲寺を創建しており、
59年の長期間当主を務めています。


寛厚院殿徳巖宗潤大居士
 璞樹院殿徳質圓明大姉
」。
6代当主村田政致の墓と正室登姫の墓。
5代政賢の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
8代藩主鍋島治茂の信任が篤かったようで、
治茂は久保田村田屋敷を訪問した際、
その屋敷を謀野樓と名付けています。
12年の当主在任後に死去。


瑞龍院殿大雲西〇大居士
 貞壽院殿堅室妙〇大姉
」。
9代当主村田政矩とその正室の墓。
深堀鍋島家当主鍋島茂辰の子で、
8代村田政恒の養子となって家督を相続。
藩命で長崎警備を担当した際、
聖書と出会ってこれを研究します。
慶応2年には自らフルベッキを尋ね、
直接聖書を学んで洗礼を受け、
11代藩主鍋島直大にこれを報告。
これによって職を解かれて隠居させられ、
晩年は聖書の和訳に余生を費やし、
明治5年に死去しています。
このようにキリシタンだったようですが、
キリスト教解禁は明治6年になってから。
この為に歴代と同じく葬られたのでしょう。

他に龍泰寺にあった龍昌院の墓もあり、
やはり10代村田政匡の墓と思われますが、
調べてないので断定は出来ません。

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