①/②
久しぶりに末裔シリーズを。
今回は歌川芳員の上杉廿四将より、
上杉謙信の家臣らの末裔を調べてみます。
「上杉廿四将」。
①輝虎入道謙信(→米沢藩主)
毘沙門天の化身と称された上杉謙信。
後継者を指名せず急死した為、
御館の乱が発生して家中は乱れますが、
実姉の子上杉景勝が勝利します。
豊臣政権時代に会津に加増転封し、
豊臣秀吉の死後は徳川家康と対立。
家康との直接対決はありませんでしたが、
関ヶ原の戦いで家康が勝利した為、
米沢に減転封となりました。
※謙信は景虎、政虎、輝虎と改名しますが、
ここでは謙信に統一します。
②長尾信景(政景?断絶)
信景という人物は実在しませんので、
長尾政景ではないかと思われます。
謙信の家督相続に反対して謀反を起しますが、
敗れて降伏してからは重臣として活躍。
謙信が家督を棄てて隠居しようとした際は、
これを説得して復帰させました。
謙信の姉綾姫を正室に迎えており、
彼女との間に上杉景勝が生まれています。
その後に舟遊び中に溺死しており、
家督は景勝が継いでいましたが、
後に謙信の養子となった為に、
政景の家は事実上断絶しました。
③中納言景勝(→米沢藩主)
政景の子で謙信の養子の上杉景勝。
後に御舘の乱に勝利して家督を相続し、
初代米沢藩主となっています。
④上杉景虎(断絶)
北条氏康の七男で謙信の養子となり、
謙信の死後に義弟景勝と家督を争い、
敗れて自刃しています。
⑤長尾時景(?)
⑥長尾忠景(?)
謙信の家臣にこの2人に該当する人物は無し。
⑦宇佐美駿河守(没落)
軍記物で軍師宇佐美定行として登場。
実在する人物は宇佐美定満で、
実際には軍師ではなかったという。
謙信の家督相続直後辺りに活躍しますが、
以降の一時資料には登場する事はなく、
没落したのではないかとされています。
政景と共に水死したとも。
⑧長尾權四郎(米沢藩士)
白井長尾家10代当主長尾景広は、
北条家(後北条家)に仕えていましたが、
小田原征伐後に白井長尾家は没落。
後に同族である上杉景勝に仕え、
米沢藩分領家1000石として続きました。
⑨松本杢助(米沢藩士?)
砲術家であったようで川中島の戦いで活躍。
松本景繁又は松本助義の事と思われます。
幕末の米沢藩士に松本家は存在しますが、
この杢助の系譜かはわかりません。
⑩齋藤下野守(米沢藩士)
越後の鍾馗と恐れられた齋藤朝信。
謙信の関東管領就任式の際には、
柿崎景家と共に太刀持ちを務めました。
武勇の誉れ高く内政でも仁政を尽くし、
謙信に絶大な信頼を得ていたという。
子孫は米沢藩士として続いています。
⑪長尾近江守(断絶)
長尾近江守藤景は七手組(前期)のひとり。
謙信の戦術を批判して対立した為、
本庄繁長によって殺害されています。
⑫柿崎和泉守(米沢藩士)
家中隋一の戦上手で知られる柿崎景家。
敵はその名を聞くと逃げ出したとされ、
主要な戦いでは常に先鋒を務めたという。
子の柿崎晴家は御館の乱で景虎を支持した為、
春日山城内で誅殺されています。
柿崎家は晴家の子柿崎憲家が相続し、
米沢藩士として続きました。
つづく。
①/②
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