龍光寺は文京区本駒込にある臨済宗寺院。
伊勢龍光寺25世虎伯大宣が幕命で出府し、
小笠原忠知や京極高和ら幕閣が開基となり、
寛永9年(1632)に創建されました。
都内唯一の臨済宗東福寺派寺院とのこと。
「本堂」。
本堂は東京大空襲で焼失しており、
現在のものは昭和44年の再建。
開基の小笠原忠知や京極高和らは、
それぞれ先祖の菩提寺に墓がありますが、
後に一族の墓所となっています。
境内の京極家墓所は奥方や子女のみで、
当主墓所は滋賀県の徳源院(清滝寺)ですが、
忠知流小笠原家(唐津藩小笠原家)では、
4代からの当主の墓所となりました。
※忠知流初代当主小笠原忠知、
2代小笠原長矩、3代小笠原長祐は、
愛知県豊橋市の臨済寺が墓所。
「唐津藩小笠原家墓所」。
当時は広い墓域に点在していましたが、
現在は一列に並べられています。
詳しい案内板も設置されていますので、
とてもわかりやすい。
「竺仙院殿従四位下侍従兼
佐州太守英嶽崇雄大居士(右)」、
「乾享院殿前壹州太守
貞山崇元大居士(左)」。
岩槻藩初代藩主(4代当主)小笠原長重の墓、
掛川藩初代藩主(5代当主)小笠原長煕の墓。
長重は吉田藩2代長矩の次男に生まれ、
徳川家綱の小姓となっています。
継嗣のいない兄の3代長祐の養子となり、
長祐の死去に伴い家督を相続。
奏者番兼寺社奉行、京都所司代を務め、
老中に昇進して岩槻藩に加増転封しました。
家督相続後20年で隠居していますが、
8代将軍徳川吉宗の指示により、
隠居後も御用部屋に顔を出したという。
長重の墓は臨済寺にもあります。
跡を継いだ長煕は長重の次男で、
就任後すぐに掛川藩へ移封されます。
藩政の確立や治水工事を行っており、
29年の治世の後に隠居しました。
掛川藩2代(6代当主)小笠原長庸の墓は、
初~3代と同じく豊橋の臨済寺。
「慈雲院殿前能州太守
本源崇徳大居士(右)」、
「南萼院殿前佐州太守
梅翁崇馨大居士(左)」。
棚倉藩初代藩主(7代当主)小笠原長恭の墓、
棚倉藩2代藩主(8代当主)小笠原長堯の墓。
長恭は掛川藩2代長庸の長男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
僅か4歳で就任した為に棚倉藩へ移封。
元服後は陶器生産を推奨しており、
棚倉鹿子焼を創始させています。
棚倉での30年の治世の後に死去。
長恭の長男長堯が家督を相続し、
藩政に力を注いでいたようで、
天明飢饉では殆ど被害が出なかったという。
これが幕府に認められて奏者番となり、
寛政の改革に参与しています。
36年の治世の後に隠居し同年に死去。
「靈源院殿前肥州唐津太守
曲輪巌崇徹大居士(右)」、
「天休院殿故壹州太守
其寧崇儉大居士(中央)」、
「韜光院殿前能州太守
華嶽崇榮大居士(左)」。
唐津藩初代藩主(9代当主)小笠原長昌の墓、
2代藩主(10代当主)小笠原長泰の墓、
3代藩主(11代当主)小笠原長会の墓。
掛川藩2代長堯の六男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
棚倉藩から唐津藩へ移封されますが、
藩財政は逼迫していたという。
移封後6年で死去しており、
長男の小笠原長行が幼少であった為に、
庄内藩酒井家からの養子長泰が家督を相続。
継続的な財政難に対しては、
領民に負担を強く悪政で対策しますが、
その効果はあまりなかったようです。
10年の治世の後に隠居し、
家督は一族からの養子長会が相続。
治世では天保の飢饉が発生しており、
財政難に拍車が掛かりました。
長会は僅か3年弱で病死しており、
郡山藩柳沢家からの養子小笠原長和が相続。
こちらも3年で病死してます。
4代藩主長和の墓所は唐津の近松寺で、
5代藩主小笠原長国の墓や、
長国の世嗣で老中の小笠原長行の墓は、
世田谷区北烏山の幸龍寺にあるようです。
■関連記事■
・佐賀県唐津市 近松寺/唐津藩小笠原家墓所
唐津藩小笠原家の領内墓所。
・佐賀県唐津市 唐津城
唐津藩小笠原家の居城跡。