佐賀県唐津市 唐津城

唐津城松浦川左岸にある唐津藩の藩庁。
唐津湾に突き出た満島山の頂上に本丸
その西側に二ノ丸三ノ丸を配す連郭式で、
萩城と似たような縄張りをしています。

東側に全長約4.5kmの巨大な松林があり、
百万本の黒松が市街を北風から守っています。
この巨大な松林が有名な「虹の松原」。
全国に防風林として松は植えられていますが、
この規模の松林が残っているのは珍しく、
三保の松原」「気比の松原」と共に、
日本三大松原と呼ばれています。

寺沢家唐津藩の時代に造られた防風林で、
小規模の自然林に植林したもの。
藩はこの防風林の重要性を認識しており、
その保護の為に松を伐採した者は死罪という、
非常に厳しい掟もありました。

唐津市街周辺。googlemapより。
唐津湾沿いの巨大な林が虹の松原です。


虹の松原」。
巨大な松林の真ん中に道路が造られており、
車で通る事ができます。
どこまでも続く松林を抜けるには、
車で不通に走っても5分以上掛りました。
虹の・・」という名前の由来は、
海岸線に沿って湾曲する姿が虹の様だとも、
二里」がなまったとも云われます。
※7.85kmなので2里ありません。
 昔はあったのかもしれませんが・・。



唐津城 遠望」。
虹の松原を抜けると対岸に唐津城が見えます。
元々は松原のある東側と陸続きだったようで、
川は山の南を通って海に流れていましたが、
藩主寺沢広高が東側を掘って河口を形成し、
西側を埋め立てて城下町を形成しました。

この寺沢広高は土木に長けた藩主で、
城下の基礎は広高によって固められました。
しかし残念ながら広高の次代寺沢堅高は、
天草の乱の失政を問われたことを苦に自刃。
継嗣無く寺沢家は断絶してしまいます。


唐津城天守」。
お城と桜のコンビは最強。
残念ながら当時の唐津城には天守は無く、
この天守は実際には存在しなかった模擬天守
諸資料に天守の存在は確認されず、
天守台が造られたのみだったとされます。
現在の天守は観光施設として造られたもので、
慶長期の様式で建築されました。

模擬天守に価値無しという方もいますが、
やはり天守は城のシンボルですので、
あるのとないのとでは随分と景観が違います。


舞鶴公園」。
満島山一帯は舞鶴公園として整備され、
230段の石段を登ると本丸に行けるのですが、
有料(100円)のエレベーターもあります。

舞鶴公園の名はお隣の福岡城跡とも一緒。
唐津城は舞鶴城の別名があるのですが、
舞鶴城の別名は全国に16もあるという。
「舞う鶴」は風雅な言葉ですので、
使われやすい名前なのでしょうね。


藤棚」。
石段を登った先にある総締門跡には、
大規模な藤棚が造られていました。
唐津城は藤も有名な城で、
季節には見事な紫藤が見られるようです。
唐津市の天然記念物。


本丸内は花見客が宴会していました。
本来はもっと広いのですが修復中で、
こじんまりとした印象。


本丸から虹の松原を望む。


天守近影」。
模造天守であろうがなんであろうが、
天守と桜は絵になるのは間違いない。
スマホでもある程度の写真が撮れました。

天守や虹の松原に目が行きがちですが、
唐津城の真骨頂は、二ノ丸、三ノ丸。
本丸は観光地化しておりますが、
二ノ丸跡や三ノ丸跡には多くの石垣が残され、
本丸以外でこれだけ残っているのは珍く、
町を散策しても多くの遺構があるとのこと。
特に海岸部分の石垣がよく残っているらしい。
残念ながら今回は時間が無かったので、
本丸跡の舞鶴公園のみの訪問となりました。

寺沢家断絶後は明石藩より大久保忠職が入封。
次代大久保忠朝佐倉藩に移封となり、
次に大給松平家松平乗久が入り、
3代続いて松平乗邑鳥羽藩へ移封。
入れ替わりに土井利益が鳥羽藩より入封。
4代後の土井利里古河藩に移封となって、
岡崎藩より水野忠任が入封しました。
天保の改革で知られる4代水野忠邦は、
岡崎藩への転封を自ら願い出たため、
代わりに棚倉藩より小笠原長昌が入封し、
ようやく藩主家が定着。
忠知系府中小笠原家が5代続いています。

幕末の唐津藩といえば、
世子のまま老中となった小笠原長行
長行は初代藩主小笠原長昌の長男でしたが、
幼少であったために養子が迎えられ、
2代、3代と短命の藩主が続いて、
4代小笠原長国の時代に成人しています。
長国は正当な系譜である長行に実権を譲り、
長行は中央へ出て順調に出世して老中に就任。
生麦事件で賠償金10万ポンドを、
独断で英国に支払ったのは長行でした。
京都への武力制圧を図って、
一時老中を罷免されていますが、
慶応元年に再び老中となり長州征伐を主導。
第二次長州征伐小倉口総督となりますが、
諸藩兵を上手く束ねることが出来ず、
徳川家茂の薨去を機に戦線離脱しています。
その後は外国事務総裁に任じられますが、
鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れると、
恭順する徳川慶喜に遠ざけられて老中を辞任。
長国は長行との養子関係を義絶し、
唐津藩は新政府に恭順しました。
奥羽越列藩同盟が結成されると、
板倉勝静と共に参謀となっており、
会津陥落後に仙台から蝦夷へ向かいますが、
蝦夷共和国政権には参画せず、
箱館戦争中に米国船で脱出。
一時行方不明となっていますが、
その後の明治5年に明治政府に自首。
駒込に隠棲して明治24年に死去しました。

また義弟で2代小笠原長泰の子三好胖も、
上野戦争会津戦争と転戦した後、
長行と共に蝦夷へ赴きました。
は従者と共に箱館新撰組に入隊し、
初戦の峠下の戦いで戦死していますが、
唐津藩士の多くも新撰組に入隊しており、
市内には隊士の墓所が多くあります。

【唐津藩】
藩庁:唐津城
藩主家:忠知流府中小笠原家
分類:6万石、譜代大名

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