長崎県長崎市 出島(再訪)②

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つづき。


乙名部屋」。
カピタン部屋の裏手にある乙名部屋
日本側の貿易事務や管理を担当する乙名が、
業務の拠点としていた建物。
乙名は出島町人らから選出されていました。


料理部屋」。
商館員達は1日2回集まり、
カピタン部屋2階で食事していました。
その際の食事を作った場所が料理部屋
日本の食材が持ち込まれて料理され、
2階に運ばれていたようです。


筆者蘭人部屋」。
オランダ商館の駐在員の住居。
出島が世界と日本を繋いでいた事や、
当時のオランダの様子等を説明しています。


乙名詰所(手前)」、
組頭部屋(奥側)」。
乙名詰所は表門の正面にあり、
出入りを監視していたようです。
隣の組頭部屋はその名とは関係なく、
計量梱包をしていたという。

ここからは明治期の建物で現存するもの。

旧長崎内外クラブ」。
明治36年に在留外国人との親交の為、
社交場として建てられた建物。


旧出島神学校」。
明治11年建立の出島神学校の校舎。
日本最古のキリスト教神学校とされ、
明治19年に閉鎖されたものの、
後に渡来宣教師の宿舎として使用され、
明治26年に現在の姿となっています。


デジマノキ」。
ナンヨウスギ科の常緑高木で、
東南アジア一帯に自生しているもの。
幕末期に出島に持ち込まれて、
日蘭修交の証として植えられました。
非常に貴重な記念樹です。

出島から出て側面から水門へ。

水門」。
出島に到着したオランダ船は、
この水門前に着岸して係留されました。
西洋と日本の文化や品物が出入りした門。
南側入口は輸入用で北側は輸出用とのこと。

出島があった事により、
日本は海外情勢を知る事が出来ており、
鎖国体制江戸時代でも最新の海外情勢は、
常に日本に入って来ていました。
いきなり黒船が来たから大騒ぎし、
何もわからずに開国したのではなく、
それらの情報を基に開国攘夷か、
議論や争いが成されています。
そういう意味では出島は日本の生命線で、
世界を見る窓口であったのでしょう。
長崎市が本気で出島を復元する事は、
非常に喜ばしい事であると共に、
陰ながら応援したいと思っています。

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