①/②
鎖国体制であった江戸時代の日本でしたが、
完全に外国人を遮断していたわけではなく、
長崎のみは国際港として機能しています。
貿易国はオランダと明朝や清朝等の中華、
藩経由の李氏朝鮮、アイヌ、琉球王朝に限られ、
李氏朝鮮は対馬藩が中継ぎを行い、
アイヌは弘前藩、琉球は薩摩藩を経由しました。
オランダ人は出島で監視されていますが、
中国人はキリスト教徒では無かった為、
唐人屋敷と称した住居地区が与えられています。
諸外国との修好条約によって開国した日本は、
箱館、神奈川、長崎、兵庫、新潟の5港を開港。
外国人の居住と貿易を認めています。
各港には居留地と呼ばれる一定の区域を設け、
土地借用と購入、住宅や商館の建設が認められ、
居留地から十里までの外出が認められました。
グラバー園はその長崎居留地の跡地です。
「グラバー園」入口。
グラバー園は居留地内の旧グラバー住宅周辺を、
観光施設として公園化したものです。
大浦天主堂がコロナで閉じられていたので、
もしかするとこっちもと思いましたが、
こっちは開園していました。
入園料620円は支払って入園すると、
動く歩道が現れて園内に進みます。
「旧自由亭」。
明治11年に諏訪神社前に建てられた旧自由亭。
日本初の西洋レストランとされ、
閉店後は長崎裁判所検事正庁舎となり、
昭和49年にグラバー園に移築保存されました。
「草野丈吉之像」。
出島商館で皿洗いをしながら西洋料理を習得し、
日本発の西洋料理店を開いた草野丈吉の胸像。
初め伊良林の自宅を改造して良林亭とし、
維新後に自由亭と改称して馬町に開いたのが、
現在移築されている旧自由亭の建物です。
その後大阪に進出し、
自由亭ホテルも開業しています。
「西洋料理発祥の地」碑。
旧自由亭は移築されたものですし、
丈吉が初め開業したのは伊良林ですし、
全然発祥の地ではないのですが、
なかなかオシャレな碑です。
「旧グラバー住宅(補修修理工事中)」。
グラバー住宅はなんと補修修理中・・。
工事が間近で観られると、
展望デッキが設けられていました。
「トーマス・ブレーク・グラバー之像」。
トーマス・ グラバーは英国商人で、
安政6年の開港直後に来日。
独立してグラバー商会を設立し、
茶や絹の輸出や武器の輸入を行い、
西国雄藩や幕府と取引しています。
この旧グラバー住宅は、
グラバーが文久元年にこの地を借地し、
文久3年に建築したもので、
現存する木造洋館としては最古のもの。
グラバーの死後は息子の倉場富三郎が相続し、
昭和14年に三菱重工業長崎造船所が取得。
昭和32年に長崎市に寄付されました。
※三菱重工業がこの住宅を手に入れた理由は、
住宅が長崎港が見下ろせる位置だった為、
戦艦武蔵の建造がばれる恐れがあったから。
「プッチーニ像」。
オペラ「蝶々夫人」の作者プッチーニの像。
グラバー園との縁はありませんが、
進駐軍の大佐婦人が旧グラバー住宅を、
マダム・バタフライハウスと名付けた事から、
蝶々夫人ゆかりの地とされて、
この像が建てられたという。遠いなあ・・。
「三浦環の像」。
日本初の国際的なオペラ歌手三浦環の銅像。
特に蝶々夫人は当たり役であったようです。
プッチーニと同じく縁はありません。
「旧リンガー住宅」。
F・リンガーはグラバー商会の幹部として、
元治元年頃に長崎に来訪しています。
維新後は、ホーム・リンガー商会を設立し、
茶の製造と輸出、木材の輸入などを行いました。
「フリーメイソンロッジの門」。
旧リンガー住宅の傍らにある門で、
居留地の海側の英国人住宅にあったもの。
所有者がフリーメイソンの会員であったようで、
昭和41年にここに移築されたもの。
グラバーやリンガーとは関係ありません。
門柱の上部にはフリーメイソンのシンボルが!
よく陰謀説に使われていますが、
上記にようにグラバーとは関係のないものです。
ま、関係あったって互助組合ですからねぇ。
つづく。
①/②
■関連記事■
・長崎県長崎市 グラバー家墓地
新坂本国際墓地にあるグラバー家の墓所。
・日本初の西洋料理を開いた草野丈吉
西洋料理人草野丈吉について。
・長崎県長崎市 出島跡
開国前のオランダ人居留地。