長崎市西児島の小高い場所に、
佐古招魂社があります。
唐人屋敷跡より上へ登った辺りで、
そこは長崎湾が一望できる場所。
早朝よりこの小高い場所へ。
佐古招魂社への入口は、
仁田佐古地区ふれあいセンター近く。
階段脇には石標が設置してあり、
佐古招魂社の説明文が刻まれています。
石段を登ると右手に門が現れますが、
残念ながら門は閉ざされていました。
招魂場及び招魂社でこのパターンは初!
この佐古招魂社は木造の社殿はなく、
石造りの小さな祠があるだけですので、
常駐の神官はいない筈・・。
毎日〇〇時に開錠って感じも無さそうで、
常時閉じられている模様。
「佐古招魂社」。
境内は2段になっているようで、
上段に石祠、合葬碑、振遠隊碑、征台軍人墓、
台湾役戦歿之碑、奉献碑、灯籠等が置かれ、
下段に個人の墓碑が並んでいるようです。
残念ながら覗いてみるだけになりました。
明治2年に梅ヶ崎招魂社が創建され、
振遠隊の戦死者が祀られます。
この振遠隊は長崎の治安を維持する為、
長崎奉行所が結成した警備隊。
地役人の子弟や剣客、浪人達の部隊で、
最盛期には350名程の隊員が在籍し、
長崎の各町に置かれた番所に勤務して、
その治安維持の任にあたりました。
最初は警衛隊と称して後に遊撃隊に改称。
明治元年に振遠隊と改められており、
戊辰の役では秋田戦争に出陣し、
庄内藩や盛岡藩と戦いました。
戦死者は13名、戦病死者は4名で、
彼ら17名は他の戦死者26名と共に、
梅ヶ崎招魂社で祀られていますが、
後に台湾の役の戦没者536名の為に、
佐古招魂社が建てられており、
後に西南戦争の戦没者も合祀。
昭和17年に両社は合併されており、
後に移転して長崎護國神社となっています。
※長崎護國神社は原爆により倒壊し、
昭和38年に再建されました。
台湾の役では多くの兵がマラリヤに感染し、
300余名の病死者を出しており、
戦闘よりも病気に苦しめられたようです。
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