長崎湊は元亀2年(1571)に開港され、
ポルトガル船との交易が行われました。
キリシタン大名であった大村純忠が、
イエズス会に長崎湊を彼らに寄進した為、
長崎はイエズス会領となり、
寒村に過ぎなかった長崎は要塞化。
各地で迫害されたキリシタンが集まり、
他教の寺院を破壊する等した為に、
豊臣秀吉はバテレン追放令を発布し、
長崎を直轄地として要塞を破壊します。
天正20年(1592)には朱印状を交付し、
朱印船貿易が開始されていますが、
その制度が義務化されたのは江戸時代で、
幕府を開いた徳川家康によって、
朱印船制度が確立されています。
ポルトガルとの貿易も続けられましたが、
島原の乱等の諸事件を経て国交を断絶。
幕府は平戸藩よりオランダ貿易を奪い、
出島でのオランダ貿易以外を禁止し、
長崎県長崎市 出島(再訪)①
以後は鎖国体制に入ります。
西洋交易はオランダ一国に限られますが、
大陸との交易は続けられており、
華僑らの住居である唐人屋敷を建造。
長崎県長崎市 唐人屋敷跡
こうして長崎は日本唯一の対外港となり、
異文化の交わる港町となりました。
「長崎港」。
現在も港町長崎の玄関口であり、
離島の多い長崎県の交通の要所。
三菱重工等の巨大は造船所もあり、
外国の豪華客船も入って来ます。
湾内は鶴が羽を広げた形をしており、
[鶴の港]とも呼ばれていたらしい。
長崎は鎖国期に多くの事件が発生し、
その舞台となっていましたが、
鎖国終了後も変わらず重要な港で、
多くの外国人が長崎に滞在し、
志士や蘭学者が長崎を目指しました。
■関連記事■
・長崎県長崎市 出島(再訪)①
西洋との唯一の窓口であった出島。
・長崎県長崎市 唐人屋敷跡
長崎に滞在した華僑達の住居跡。
・長崎県長崎市 グラバー園①
長崎にあった外国人居住区。