京都府京都市 大原陵

京都~大原三千院~♪」。
京都大原三千院があるのを、
子供の頃から知っていましたが、
京都大原がどこにあるのか、
三千院が一体全体何なのか、
全く判ってはいませんでした。
これは歌謡曲[女ひとり]の歌詞で、
永六輔作詞、いずみたく作曲、
歌はデューク・エイセス
昭和40年に大ヒットした曲です。
僕はまだ生まれていませんが、
バラエティとかでよく流れており、
親世代も歌っていました。

今回はその三千院の訪問ではなく、
隣にある大原陵への訪問。
時間が限られていた事、
インバウンドで観光客が多い事、
これらの事から三千院は訪問せず、
次の機会としています。


女ひとり」歌碑。
三千院参道に建てられた歌碑。
失恋後のひとり旅の情景が浮かびますが、
知ってたのはワンフレーズのみで、
失恋歌なのねと知ったのは後の事。
更に2番3番は三千院ではなく、
栂尾の高山寺、嵐山の大覚寺とのこと。


三千院(御殿門)」。
奇跡的に観光客が居ない瞬間があり、
すかさず撮影したものです。
三千院は大原にある天台宗寺院で、
最澄の時代より比叡山にあった円融房が、
後に東麗の坂本梶井に移転されて、
更に数度の移転を繰り返した後に、
明治4年に現在地に落ち着いたとのこと。
とはいえ保元元年(1156)には、
出先機関は大原に設置されており、
応仁の乱後は本坊も大原に移転。
元禄11年(1698)に御車道広小路に移り、
大原は本坊ではなくなりましたが、
施設はそのまま存続しており、
上記のように明治4年に大原に戻りました。
三千院の名はその時に改称されたもので、
江戸緯以前は梶井門跡と呼ばれ、
皇族が門跡を務めた門跡寺院であり、
大原も貴人の隠棲の地であったという。

大原陵は三千院の北側。

大原陵」。
82代後鳥羽天皇及び84代順徳天皇の御陵。
後鳥羽天皇は80代高倉天皇の第四皇子で、
81代安徳天皇の弟にあたります。
平家木曽義仲により京都を追われ、
安徳天皇と三種の神器を奉じ西国へ逃亡。
この為後白河上皇新帝践祚を決断し、
後鳥羽天皇は寿永2年に即位します。
後に壇ノ浦の戦いで平家が滅び、
八咫鏡八尺瓊勾玉は回収されますが、
天叢雲剣は海に没して消失。
伊勢神宮から献上された剣を代用し、
これを形代として宝剣としました。
※後にこれが正式に宝剣とみなされます。
後鳥羽天皇は建久9年(1198)に、
83代土御門天皇へ譲位しており、
以後は後鳥羽上皇として院政を開始。
土御門天皇順徳天皇仲恭天皇と、
3代23年の間[治天の君]となりました。
しかし幕府執権北条義時追討の為、
承久3年(1221)に承久の乱を起しますが、
幕府の大軍に敗れて隠岐に流され、
そのまま京には戻る事は無く崩御。
順徳天皇は後鳥羽天皇の第三皇子で、
土御門天皇の譲位により即位します。
後鳥羽上皇の院政で政務には関わらず、
有職故実研究に没頭して[禁秘抄]を著し、
和歌にも熱心で多くの歌を詠んでおり、
[八雲御抄]という歌論書も著作。
後鳥羽上皇の討幕運動に賛同し、
これを支える為に譲位していますが、
承久の乱で敗れて佐渡へ配流されます。
順徳天皇も京へ戻る事は出来ず、
佐渡で崩御していますが、
これは幕府への抗議で断食し、
事実上の自殺であったという。

この悲劇の二帝の遺骨は、
梶井門跡尊快入道親王の許に送られ、
※尊快入道親王は後鳥羽天皇第七皇子。
大原陵に葬られています。

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