元治元年6月5日。
尊攘派志士20数人は池田屋で会合。
八月十八日の政変の後、
情勢は公武合体策が主流となり、
弱体した尊攘派の勢力を挽回する為に、
前後策が協議されていました。
この情報を察知した新選組は、
会合場所の池田屋に踏み込んで戦闘となり、
9名を討ち取り4名を捕縛。
※後に20余名が掃討により捕縛。
この事件により新選組の名は天下に轟き、
後に勢力を拡大するに至ります。
討ち取られた9名は三縁寺に葬られ、
※当時は池田屋近くにあった。
後に墓石が建てられています。
「三縁寺」。
三緑寺は岩倉にある浄土宗寺院。
昭和54年の京阪三条駅前開発に伴い、
現在地に移転しています。
その際に尊攘派の墓も移転しており、
本堂裏手の墓地に改葬。
「池田屋事変殉難烈士墓所」。
改葬された尊攘派の墓所。
鳥居も旧墓地に設置されていたもので、
墓石と同様に移されています。
「贈正四位宮部増實之墓
贈従四位松田範義之墓」。
熊本藩士宮部鼎蔵と松田重助の墓。
宮部は肥後勤皇党の重鎮で、
吉田松陰とも懇意で東北遊学にも同道。
尊攘運動を展開して長州志士と交わり、
尊攘派の勢力挽回の為に京都に潜伏し、
古高俊太郎宅に寄宿していました。
池田屋事件では新選組に応戦し、
脱出を図るも逃げ切れず自刃しています。
松田は宮部を師として仰ぎ、
宮部と共に尊攘活動を行い、
池田屋事件では新選組に捕縛。
翌朝に脱走して河原町まで逃走しますが、
見廻りの会津藩兵に殺害されました。
「肥後 宮部鼎蔵中原増實墓
松田重輔平 範義墓」。
こちらも宮部と松田の墓。
これは移転前の墓石だったようで、
先程の墓石は移転後に建立されたもの。
「上松源友胤之墓」。
熊本藩士上松巳八友胤の墓。
こちらも宮部鼎蔵の弟子だったようで、
文久3年7月26日に二条家の新幕派を斬り、
自分も斬られて死去したとされ、
密かに三縁寺に葬られたようです。
「贈正五位大高又次郎君碑」。
林田藩士大高又次郎の墓。
大高は安政4年に脱藩し梅田雲浜に師事。
安政の大獄で雲浜が捕縛されると、
これを追って江戸で奪還を計画しますが、
雲浜は獄死して奪還計画も露呈し、
坊主に変装して長州藩に匿われました。
その後は京都で尊皇攘夷運動を展開。
武器等の調達を担当しますが、
池田屋事件で殺害されています。
「贈従四位 吉田稔麿
贈従四位 杉山松介
贈従四位 北副佶摩
贈従四位 望月龜彌太
贈正五位 石川潤次郎
贈正五位 廣岡浪秀 之墓」。
池田屋事件殉難烈士の合葬墓。
吉田稔麿は高杉晋作や久坂玄瑞と共に、
松陰門下の三秀と称された人物で、
宮部と共に尊攘派の大物でした。
襲撃時には席を外していたようですが、
異変を聞いて槍を持って駆け付け、
会津藩兵と戦って討死しています。
杉山松介も松陰の門下で、
松陰の間部詮勝襲撃計画にも関与。
後に京都で活動していましたが、
池田屋事件に遭遇して負傷し、
翌日に死亡しました。
北添佶摩、望月亀弥太、石川潤次郎は、
土佐出身の尊攘派志士で、
京都に潜伏して周旋活動を行いますが、
池田屋事件に遭遇して討死若しくは、
自刃して果てています。
広岡浪秀は美祢の下領八幡宮の神官で、
長州藩士らに交じって尊攘運動を展開。
八月十八日の政変が起こると、
長州藩の汚名返上に奔走していますが、
池田屋事件では重傷を負いつつ脱出し、
三条河原付近で絶命しました。
上記した様に三縁寺は移転し、
当初埋葬された場所ではありませんが、
墓石同様に遺骨も移されており、
移転前の京阪三条駅前には、
墓所跡を示す跡碑が建立されています。
■関連記事■
・京都府京都市 池田屋跡
池田事件の現場跡。
・伊庭八郎の征西日記⑫
京都で異変があった事が記されています。
・熊本県熊本市 小峯墓地
宮部鼎蔵の墓があります。