福岡県糸島市 深江宿跡

深江宿唐津街道の宿場町。
唐津藩幕府中津藩と支配が移り、
中津藩領となってからは代官所が置かれ、
怡土郡の中津領24村の年貢米2万石が、
集められた後に船で運ばれたようで、
宿場だけでなく物資集積地としても、
賑わいを魅せていたようです。


二丈深江周辺。緑の線が唐津街道で、
青い線が船着場への道。
青くぼかした辺りが深江宿跡です。

南側より散策。

深江神社」。
建久元年(1190)に領主原田種直が、
竈門宝満宮太宰府天満宮より勧請し、
建仁3年(1203)に現地に建立された神社。
豊臣秀吉朝鮮出兵の際に参拝し、
野点を催した時に淀君懐妊の報が届き、
秀吉はこれを喜んで小早川隆景に、
社殿の再建を命じたとされます。


本町」。
深江神社より北上する南北の道が本町
本陣問屋場高札場がありました。
情報が少なくこれらの詳細は不明。


立派な旧家」。
庄屋だった[大黒屋]の屋敷らしいのですが、
資料がなく[らしい]としか言えません。


本町北詰の三ッ辻(現在は四差路)。
右奥に設置された石燈籠は、
[火難封じの石燈籠]とよばれており、
火災の多さに困っていた深江の民が、
火難封じの為に太宰府天満宮に毎夕献灯し、
御利益を賜ろうと天保3年(1832)に建立。
毎夕献灯するので失火も発見しやすく、
火災も減ったのではないでしょうか。

街道は東へ曲がりますが、
中津藩の船着場のある西側へ。

桝形」。
愛宕神社の前にある桝形
この先に奉行所があったようですので、
防御の為のものと思われます。


延寿院」。
桝形から更に西に進むと坂道となり、
これを登った場所に延寿院があります。
享保の飢饉の犠牲者を弔う為に建てられ、
嘉永6年(1853)に延寿院と命名。
後記する正覺寺の末庵になったとのこと。


中津領境石」。
境内に置かれた境界石
[中]の字は欠けていますが、
中津藩領を示す境界石です。


船着場跡」。
中津藩の年貢米等が積み込まれた船着場跡
現在は河口は砂で舟が通れそうにありません。

代官所の場所はよく判りませんでしたが、
船着場のすぐ近くだったようです。

三ッ辻に戻って東へ。

東町」。
僅かに古い家屋が残る程度で、
殆どの家は更新されていました。
但し結構立派に建て直された家が多く、
裕福であった様子が伺えます。


正覺寺」。
東町の東端にある浄土宗の寺院。
元々は真言宗の寺院だったようで、
二條城主深江氏の菩提所でしたが、
相次ぐ戦乱で被害を受けており、
本尊のみが焼け残ったとされます。
天正7年(1579)に現在地に再建され、
以降は浄土宗に改宗。
街道の曲がり角の目印となりました。


塩屋町」。
正覺寺の元禄門より北上。
町名が塩屋町というからには、
塩屋が多くあったのかもしれませんが、
これについてもよく判りません。

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