山口県山口市 大内氏館跡

大内氏館大内家9代当主大内弘世以降、
山口を本拠とした際に建設され、
代々大内家当主が居住しており、
毛利家山口侵攻まで使用された居館。
弘世は京都に模して山口の街並みを創り、
その居館を将軍邸宅を模して建設しました。


龍福寺」。
毛利元就によって周防大内氏は滅びますが、
元就は16代当主大内義隆を菩提を弔う為、
大内氏館跡に龍福寺を建立。
以後は毛利家の庇護を受けて隆盛し、
現在に至っています。
龍福寺は既に訪問済みではありますが、
山口県山口市 龍福寺/天花爆発遭難者墓所
今回は大内氏邸跡として訪問しました。


本堂(主殿跡)」。
国指定重要文化財の本堂。
本堂の建つ場所に主殿があったという。
大内氏館は主殿をこの中心とし、
ほぼ正方形の敷地となっていました。


大内義隆卿主従之供養塔」。
境内に建てられた宝篋印塔
16代当主大内義隆は大友家尼子家と戦い、
その勢力を拡大していますが、
天文20年(1551)の陶晴賢の謀反により、
山口を放棄して仙崎から海路脱出を試みます。
しかし暴風雨の為に出航する事が出来ず、
深川の大寧寺で自刃。
17代には陶晴賢の後ろ盾として、
大友宗麟の弟大内義長が就任しますが、
晴賢は厳島の戦いで元就に敗れてしまい、
義長も後に功山寺で自刃しました。
この墓は平成12年の義隆没後450年を記念し、
大寧寺の義隆の墓を原寸大に複製し、
ここに建立したものとのこと。


大内義隆句碑」。
義隆は大寧寺に逃れた際に、
住職異雪慶殊和尚の弟子となっており、
金剛経の経文を引用し辞世を読みました。
 討つ人も 討たる々人も 諸ともに
        如露亦如電応作如是観


大内氏館跡南東部に池泉庭園があります。

池泉庭園」。
平成4~5年の発掘調査で発見され、
平成23年に復元整備されたもの。
中央にひょうたん池のある池泉式庭園で、
水は東側の水路から流入させています。


土塁」。
大内氏館跡を囲む復元された土塁。
たぶん本物はもっと高いと思われます。


枯山水庭園」。
大内氏館跡北西部にあります。
平成9~10年の発掘調査で発見され、
平成17年に復元整備されました。
その他にかまど水路石組
建物の基礎石井戸跡もあります。

龍福寺を出て築山跡へ。

八坂神社(築山館跡)」。
龍福寺北側の八坂神社境内は、
別邸である築山館のあった場所。
築山館は迎賓館に使われたとされ、
大内氏館は住居になっていたようです。


八坂神社拝殿」。
応安3年(1370)に大内弘世により、
京都祇園社から勧請して創建されました。
鴻ノ峯の山麓にあったようですが、
元治元年に山口政事堂を建築する際、
現在地に移鎮したようです。
本堂は国指定重要文化財。


箏曲組歌発祥之地」碑。
大内義隆が催した詩歌管弦の席で、
都の殿上人が一首ずつ歌を作った歌を、
で弾き歌いしたとされており、
これが箏の組歌の起源であるとのこと。
この碑は昭和40年の建立です。


築山神社」。
慶長10年(1605)に毛利輝元により、
多賀神社境内に[宝現霊社]が建立され、
大内義隆らの霊が祀られましたか、
後に龍福寺境内に移転し、
更に片岡に再度移転されました。
明治3年に現在地に移されており、
築山神社と改称されていますが、
その際に興隆寺境内の東照宮を移し、
祭神である徳川家康も合祀され、
翌年には市川少輔七郎も合祀されて、
現在に至っているようです。


土塁」。
現存する築山館の土塁。
龍福寺の復元土塁に比べてかなり大きい。
本来の大内氏館の土塁も、
この規模だったのではないでしょうか?

町の中心にあった戦国時代の居館で、
これ程の遺構が残るのは皆無。
その理由は毛利家が大内義隆の霊を敬い、
居館跡に菩提寺を建立した為でした。

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