興隆寺は推古天皇の時代(593-628)に、
百済より渡来した琳聖太子が建立した寺院。
琳聖太子は百済の王族(聖明王第3王子)で、
周防大内氏の祖とされています。
※諸説あり。
大内氏が隆盛する頃には同様に栄え、
氷上山全域に僧房や堂宇が建ち並びますが、
大内氏滅亡後に毛利家の庇護を得るも、
大内時代程とまではいかず衰退。
江戸時代に中興一世行海僧正により、
興隆寺を氷上山真光院として復興し、
脇坊宝乗坊、安楽坊、常楽坊、安禅坊、
宝積坊、妙泉坊を抱えたとされ、
他にも東照宮、観音堂、山王社、護摩堂、
釈迦堂、中興堂、北辰妙見社がありました。
「興隆寺妙見社」。
明治維新後の政府の政策で寺領を失い、
明治9年に真光院を興隆寺の寺号に復し、
諸坊のうち宝乗坊のみ残されますが、
その他の坊は廃退してしまいます。
諸堂も釈迦堂は龍福寺の本堂、
東照宮は築山神社、観音堂は山根観音堂、
山王社は御堀神社にそれぞれ移築され、
他の諸堂は取り壊されました。
現在は中興堂を興隆寺仏殿とし、
本尊木造釈迦如来坐像を安置しており、
左隣に北辰妙見社、
更に鐘楼を残すのみとなっています。
「仏殿(中興堂)」。
中興堂は興隆寺再興の行海僧正が、
元禄7年(1694)に入滅した為、
翌年にその中興を讃えて建立されたもの。
現在は興隆寺の本尊が安置されています。
「北辰妙見社」。
天長4年(827)に4代大内(多々良)茂村が、
下松の降松妙見社を勧請して建立し、
※現在の降松神社。
大内氏の氏神として崇敬しました。
平成11年には奇兵隊軍監福田侠平の霊が、
東行庵より分霊されており、
その位牌が祀られて顕彰されています。
「梵鐘」。
享禄5年(1532)に16代大内義隆が寄進。
総高189㎝口径111.8㎝と大きな銅鐘で、
朝鮮鐘の影響を受けており、
随所に装飾がにぎやかに付いています。
銘文から筑前葦屋の大江宣秀の作とのこと。
国指定重要文化財。
文久3年7月4日。
真光院に勅使正親町公董が入り、
藩主父子が攘夷の褒勅を拝受しました。
また同年10月2日より三条西季知、
四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、
錦小路頼徳の五卿が滞在し(翌7月13日まで)、
奇兵隊が駐屯して彼らを警護。
元治元年には真光院の僧侶や寺侍等が、
星輝隊を結成して諸隊と合流しており、
倒幕の礎の一旦を担っています。
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