幕末維新や江戸時代には関係ありませんが、
大宰府周辺の古代山城を数件巡ってみます。
大野城は四天王山山頂を中心に、
東西約1.5㎞、南北約3㎞の外周約7㎞を、
土塁や石垣の城壁で囲めており、
日本一の規模を誇る古代山城。
発掘調査で約70棟の建物跡が発見され、
土器や瓦、炭化米等が発掘されました。
天智天皇2年(663)の白村江の戦いで、
日本・百済連合軍は唐・新羅連合軍に敗北。
唐・新羅の日本侵攻を恐れた天智天皇は、
大宰府政庁の防御を再構築に着手し、
大野城、基肄城、水城を建設します。
※他に鞠智城も後詰として構築。
「大宰府と取り囲む防衛施設」。
[水城跡パンフ]より。
大野城は大宰府政庁北側にあり、
南側の基肄城と共に防衛網を形成。
「百間石垣」。
全長180mが現存する大野城最大の石垣。
内部まで石を敷き詰めた総石垣構造です。
昭和48年、平成11及び15年の水害により、
甚大な被害を受けていますが、
これに伴い発掘調査や整備が行われて、
多くの知見が得られたとのこと。
様々な大きさの長方形の石を横位置に積み、
数ヶ所のカーブを描きながら伸びています。
カーブする部分は小さめの石を重ねており、
地形や地盤の微妙な変化に対応しています。
1350年間存在し続けた石垣ですので、
末永く保存して欲しいですね。
百間石垣より車で南下。
焼米ヶ原へ。
「焼米ヶ原」。
倉庫跡とされる尾花礎石群の一画で、
炭化した米が見つかったことから、
この一帯は[焼米ヶ原]と呼ばれたという。
「玄清法印之墓」。
焼米ヶ原にある玄清法印の墓。
玄清は盲僧琵琶(筑前琵琶)の開祖で、
17歳で盲目とな琵琶を弾くようになり、
多くの人々を救ったとされます。
神託を受けて比叡山の最澄に会い、
琵琶を弾いて蛇退治をしたとされ、
大宰府での天然痘大流行の際には、
琵琶を弾いて悪霊を退散。
盲僧玄清の名は全国に知られ、
多くの盲人が玄清の門人となりました。
玄清は58歳で死去したとされますが、
その墓所は長く知られていなかった為、
天保5年(1834)の一千年忌を記念して、
ここに墓が建てられたようです。
※その後の明治34年に山麓の坂本で、
玄清の塔婆が発見された為、
千百五十年忌記念に坂本にも墓が建立。
大野城は後に廃城となっており、
約100年後に跡地に四王寺が建立されますが、
※この為に四王寺山と称されます。
その廃止時期はよくわかりません。
他にも広範囲にわたり遺構が残りますが、
訪問は登山やハイクのレベルになる為、
今回は四天王寺林道沿いの百間石垣や、
焼米ヶ原だけにしときました。
■関連記事■
・佐賀県三養基郡 基肄城跡
続日本100名城に選出された古代山城。
・福岡県太宰府市 水城跡
続日本100名城に選出された古代の城。
・佐賀県唐津市 名護屋城跡①
日本100名城のひとつ。