遊郭跡や古い街並みを紹介するサイトでは、
結構知られている下関の新地遊郭跡。
国道191号線沿いから遊郭跡の建物が見え、
その存在は知ってはいましたが、
近代に発展した遊郭と思っていた為に、
それ程興味はありませんでした。
でもよく調べてみると歴史は意外と古く、
享保年間(1716-1735)に成立した模様。
これは一度行って見ねばと、
幾度も通りながらスルーした街並みを、
今回は初めて歩いてみます。
元々赤間関周辺は長州藩領ではなく、
支藩の長府藩や清末藩の領地でしたが、
享保年間に長府藩領の今浦村を一部を、
長州藩領豊田郡金道村と交換しています。
長州藩はこれを直轄領として整備し、
会所を設置して築港や町割りを行い、
赤間関の収益の一部を得ようと画策。
諸国廻船を引き寄せる為に、
芝居小屋や新地遊郭が開かれました。
遊郭には宝来屋、紀ノ国屋、江戸屋、
吉原屋、泉屋があったようで、
更に茶屋や廻船船宿が軒を連ねたという。
明治になると遊興地的な色合いが濃くなり、
唐戸周辺が経済的な発展をする傍らで、
大和町埋め立てや下関漁港の築港で、
独自の娯楽地域が出来上がっています。
戦後の都市計画は下関駅東側が中心となり、
高度成長期に下関市街は発展しますが、
駅西側はそれ程手が付けられる事はなく、
時計が止まったような街並みが残ります。
※当ブログが指す古い街並みではなく、
昭和期の古い街並みです。
「新地西町交差点」。
新地西町交差点が伊崎新地遊郭の入口。
築100年を超える元妓楼が左右に並びます。
東側に少し行くと[高杉東行終焉之地]があり、
下関市新地町 高杉東行終焉之地
伊崎新地に非常に近かったと判ります。
労咳を悪化させた高杉晋作は、
北に約350m登った場所にある草庵で、
療養に専念する事としていますが、
下関市上新地町 高杉東行療養之地
余りにも寂しい場所であった為に、
終焉の地である林三九郎邸の離れに移転。
新地の賑やかな喧騒を聞きながら、
短い晩年を過ごしたようです。
新地西町交差点より入る。
空地や新しい建物も多いようですが、
遊郭建築らしき建物も多く残ります。
但しこれらは戦前戦後の建物のようで、
江戸期ものではありません。
下関の中心は駅東側から唐戸辺りである為、
そこから離れた新地は空襲の被害が少なく、
戦前の建物が多く残ったようです。
伊崎新地遊郭の象徴的建物があった場所。
遊郭跡や古い街並みを紹介するサイトでは、
必ずと言って良い程紹介されていましたが、
残念ながら取り壊されていました。
更に奥にある路地。
その殆どが店舗だった模様で、
現在も理容店や銭湯が営業しています。
全国からもこの風景を観る為に、
わざわざ下関に来る人もいるらしい。
但しその歴史や性質上、
公的に保存される事はないでしょう。
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